えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ティファニーで朝食を

Breakfast at Tiffany's, 1961
オードリー・ヘップバーンが可愛ければそれでいいとかいう話は無しにして。
皆さんご承知のように、この映画は原作とは色々違う点があり、
新潮文庫翻訳者の龍口直太郎などは結構お怒りのようである。
要するにうまいこと恋愛映画に変貌を遂げているのであって、
原作をかなりの程度忠実になぞりながら、最後をうまくまとめてみせたその手腕は、
そういうものとしてはなかなかよく出来ていると思わないではない。
それでもあえてむずかしいことを言うならば、
僕は君を愛しているのだから、君は僕のものになるべきだ
というマッチョな美青年の台詞をホリーが受け入れてしまうという展開は、
カポーティものけぞったこと間違いなしであろう。
自由と幸福を求めて奔放かつ大胆に振舞うホリーは、オードリーのファッションも含めて
50・60年代の女性の、一つの憧れの生き方を提示しているように見えながら、
結末において映画が発するメッセージは明らかに、
女性の幸福は愛する男性の「所有」になることだ、という理念に収斂されるのだから、
それは男性の願望の露な表明であることばればれである。その視点から振り返ってみるならば
オードリー扮するホリーの人物像まるごとが、果たして女性の憧れであるのか
男性の理想の表象なのか、簡単に分かったものではあるまい。
ということになるのではあるまいか。
ま、私はそれはいかんと言うつもりは別にない。
ボリス・ヴィアンのごとくにカポーティが憤死しなくてよかった、とは思うけどね。