えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

最後の逃走

1876年、「水辺にて」で限定的とは言え文学の世界に詩人としてデビューした
モーパッサンが同じ「文芸共和国」に掲載した長篇詩。
私の言うべきことは基本的に同じであって、明らかな反ロマンチックの態度表明
をしつつ、「詩」の世界に「現実」を導き入れること、というのがモーパッサン詩の
原則である、ということはこの詩にもおおむね当てはまると言っていいと思う。
作者自身はこれを「現実において詩を理解する」ことだと言い、
「因習に閉じ籠る者、理想の監視人、「崇高」を歌う粗暴なオルガン達を驚かす」
(訳は不細工だけど)ものだと言っている。書簡89信では続けて
大手新聞「ゴーロワ」にこの詩を掲載するにあたっては「憤慨した抗議」の声が
あがったとも告げているが、にもかかわらず「ゴーロワ」の性格からすれば
こういう詩を褒めることには「特別な射程」があるのだとも言う。
美学的な問題が新聞という媒体においては政治的色合いを帯びる
という限定的なことではなくて、そもそも美学的対立とはそれ自体政治的対立であるということは
ボードレールフロベールの裁判沙汰が雄弁に語っていることだ。
がその問題はそれこそ射程が広いのでおいておいて、
つまるところ、
よぼよぼの老夫婦の惨めな死を歌うことのどこが詩なのだ
という「憤慨」の声こそ、まさしく作者が期待したものに他ならないのだ
ということを言っておきたいと思う。
だがそれにしても、それだけというわけでもあるまい、
ということもこれまた繰り返し述べていることである。
よぼよぼの老人とかヒキガエルとかナメクジとか、そういう「詩的」ならざる主題を
取り上げるところに「レアリスム」を見ることができるにせよ、起承転結のある
「物語」を散文的と評することも可能にせよ、
しかしじゃあこれを散文で書いたらコントと呼べるかと言うならば、そういうことに
もならないだろうと想像されるのである。
たとえばこの老夫婦は年齢不詳だけれど、80年前に若者だったのなら、ほとんど百歳に
近いということになる。あるいは
太陽が昇り世界が「目覚める」前半と、一転不吉な様相を帯びる後半との明確な対照。
分岐をなすのは老夫婦における失われて久しい生(性)の目覚めであるが、
それがダイレクトに死と結びつくものであることを、この詩は明確に語っている。
余分なディテールは一切排除した単純明快な論理の中に、エロスとタナトスとの
不可分の結びつきを提示し、それこそがこの(詩の中の)世界の法則であると
示すこと。そう考えればこの詩は「水辺にて」と全く同じテーゼに還元することが
できる。相違は「老い」というファクターにのみあると言ってもいい。「老衰」のテーマは
他にも「祖父」と題した詩が『詩集』に収められることになるわけで、
『詩集』全体の「射程」が青年期だけでなく幼年期から老年までの人生全体にあることを
示しているようだ。
つまりそういう統一的な一つのヴィジョンを「詩人モーパッサン」は追求しているのであり、
その目的のためにはいわゆる「本当らしさ」に則るような、有体に言えば自然主義的な理念
とは一線を画するところにこそ彼独自の「詩学」があった、ということだ。
それは少なくとも1880年において新しい試みであったし、
私としてはフランス詩の長い長い歴史の中においてさえ、特別の地位を占めるもので
あると言いたい。それがどれだけ限定的で狭い地歩であるとしてもだ。


というところまでがいわば公式見解なのであるけれど、そいじゃ腹打ち割ったとこで
この詩が傑作かどうかといえば、私とてあくまで虚勢を張るつもりもない。
端的に言えば底が浅い、というか浅すぎる印象はぬぐえまい。
戯画もやや誇張が過ぎて俗に流れすぎているように思われる。
最後の辺の虫やナメクジのところの描写は、恐らくボードレールの「腐肉」を
意識したところだろうけど、「一羽の烏の長い陰鬱な鳴き声」というような
クリシェな表現もちと痛い。つまるところイメージの造形が物足りない。
1880年にはその主題だけでも挑発的であったという事情がすっかり風化してしまった
現在において、この詩をただそれ自身の価値において判断しようとすれば
点はおのずから辛くなるだろう。
でもまあいいじゃないか。
つまるところ開き直って私はそう言いたいのである。
若い頃のモーパッサンは野心に燃えてこういう詩を書いて得意だったのである。
私としてはその事実をなるたけ深く理解したいだけのことなのだ。