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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

写実主義廃止宣言

ここに私は、レアリスム(リアリズム)の訳語として「写実主義」の語を用いることを
原則として廃止することを誓います。2008年1月吉日 えとるた


ということなのだ。
写実主義」の語はリアリズムの概念を矮小化することに繋がる。リアリズムは写実には還元されえない
射程の広い概念だから、この語はリアリズムの訳語としては「誤訳」なのだ。
絵画においては「写実的」な絵画はありえるだろうけれど、
文学作品、それも小説となれば写実だけでは生まれない、というのは思えば当たり前のことだ。
写実だけでも私小説なら書けるというのも嘘であって、そんなはずはありっこなかろう。
私は言語に「写実」はありえないとかラディカルなことを言うつもりはまったくないが、
写実主義を冠していい作家がいるとすれば、それは正岡子規だけではないかと思う。
リアリズムの作家にとって「観察」が重要であることはもちろんだ。だが繰り返すけれども
小説は「見たまんま」書くような代物ではない。想像力は不可欠だ。
では何故写実主義という訳語が定着してしまったかといえば、リアリズムはそもそも絵画から
やって来た美学概念だからということになるかといえば、案外どうして明治の頃には既に
写真派なんていう言葉もあったぐらいだから、「誤解」の根は結構深い。これは日本には
自然主義」(としか訳しようがない)概念と一緒に入って来たことが大きな原因ではないか
と推察される。自然=あるがまま=見たまんま、という図式から、写実主義自然主義とは
明確な区別のされないままに流入した。その時にリアリズムが問題に付するところの
「そも現実とは何か」という問いかけが欠落してしもうた、という可能性は否定出来ない。
リアリズムとは即ち「現実主義」である、ということの持っていた意義と射程が十分に
消化吸収されえなかった、ということは、明治・大正の日本文学を比較文学的観点から
考える時に、実際のところしばしばいささか安易に用いられかねない批判の論法であって、
安直にこれをすることを私はあまり好まないのは、実はそれがあまり実り多い議論を生まない
からなのだけれど、それはまた別の話なので今はいい。
要するに、私は単純明快に「現実主義」という訳語の方がベターだと言いたいのだが、
実際のところは「リアリズム」という語が浸透してしまった現在、今さら訳語をつける
必要なんかない、ということだろう。
それだけのことを私は何をきばっているのだろうかしら。
と思わないでもないけれど、いずれにせよ、「写実主義」の訳語よ、さようなら。