マリアヌ・ビュリー先生の『女の一生』についてのお話。
フロベールとの比較から始まり、随所に朗読を挟みながら、主要な登場人物
(ジャンヌ、父、母、リゾン叔母、ジュリヤン、アベ・ピコ、アベ・トルビヤック)
について語られてゆく展開。ボヴァリー夫人がロマンチックな読書の影響を受け、
「絶対への趣向」を持ち突き進んでいくのとは違い、ジャンヌはまず「非文学的」な人物であり、
彼女は「愛人」を持つことを考えもしない。「結婚」が彼女にとっての唯一の冒険でありながら、
その夢は乱暴な「現実」に打ち砕かれる。彼女は実人生に対して何の準備もできていない人物であり、
それが彼女の人生を決定づける。間欠的に衝動に駆られることはあっても突き進むことのない
彼女のモノトーンな人生は、一方で「老嬢」リゾンおばさんと対照をなしてもいる。『女の一生』は
複数の「女の宿命」を描いた小説でもある。どちらの女性も幸福を得ることはないのだけれど。
瞬間的に得られる幸福は自然と密接に結びつき、自然を認めるアベ・ピコと対照的なアベ・トルビヤック
は宗教の反自然性とその教条的な狭隘さを表す。モーパッサンは宗教に救いを見出さなかった。
というような感じ。
母親の死後の通夜に、母のかつての不倫を発見するジャンヌについて、究極的には「経験」が伝授される
ことはなく、各個人は孤立したまま人生に対面するしかない。そこには「叡智」の可能性はない
と語られる等、話の展開はちと暗い感じではあった。インタヴュアーのラファエル・エントヴェンは
最後にモーパッサンにとって「救い」はあるのでしょうかと問うが、先生のお答はこうだ。
Si l'on n'est pas un artiste, il ne reste pas de grand-chose, en fait. C'est ça ce qui est désespérant.
「芸術家でない限り、実際のところ多くは望めないのでしょう。それは絶望的なことですけれども。」
という結論だけ聞くとなんだか本当に暗いようだけれど、本当はこの「芸術家である」ところに
モーパッサン自身の「救い」salut はあった、ということなのである。
30分と限られた一般向けの番組ゆえに、話が人物中心になってしまったのはやむをえないけれど、
できればもう少し「書くこと」と「芸術家モーパッサン」の在り方にまで、話が進んでほしかった
りはしたのである。というのが弟子の感想でありながら、
とはいえ満足至福の30分でありました。
Mariane Bury commente, Une vie de Guy de Maupassant, Gallimard, coll. "Foliothèque", 1995.
は『女の一生』再読に必須と、番組でも紹介されているので載せておこう。
ちなみにビュリー先生は Mariane の n 一個なのだけれど、これがしばしば n 二個に間違えられて
あまつさえ番組のHPでも間違ってる箇所があるのが、ちと悲しいのでありました。
En fait, je suis très content d'avoir écouté votre voix, madame !