えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ラジオ第3回

3・4回のお話は、
Jean Salem, Philosophie de Maupassant, Ellipse, coll. "Littérature et philosophie", 2000.
に即しているので、分かりやすいと言えば分かりやすく、エピクロスとかルクレティウスとか言われてもなあ
という点では若干分かりにくいお話。
まずこれまたモーパッサンにまつわる「誤解」の払拭から話は始まるのだけれど、それはゴンクールの日記に
典型的な「無教養人」モーパッサンという揶揄のこと。
ジャン・サレムは19世紀の高校教育は古典に重点を置いていたこと、モーパッサンは勤勉な生徒であり
ラテン語も読み書きしていたことを強調する。ルクレティウスからモンテスキューに続く古典の素養があり、
そして当時流行のスペンサー、ショーペンハウアーの体験があった。
ただし当時のフランスにおけるショーペンハウアー受容は、ミゾジニー、ペシミスムの面だけを取り上げた
通俗化されたものであったことは指摘しておかなければなるまい。
が、それはともかくも、モーパッサンの作品には「哲学」の要素があちこちに見てとれるわけである。
まず『女の一生』のジャンヌの父親が18世紀の哲学者の影響を受けており、彼の内に作者自身の思想が
見てとれよう。
モーパッサンがフランスの伝統とショーペンハウアーから受け継いだ根本の理念は、人間の行動を決定
づけるものは個人のエゴイスムであるというものだったが、このエゴイストは「自然」に大きな影響を
受ける存在である。前半の話の中心は、この「気候の理論」と呼ぶべき、外的環境が人間に大きな
作用を及ぼすという考えだ。これまた古来より伝統ある考えでもある。春の目覚めが欲望の目覚めを
喚起する『女の一生』「野あそび」の有名な場面がそこで引用される。
ここには明らかに唯物論的な思想が見てとれるし、それは同時に「決定論」的な世界観でもある。
その時問題となるのは「自由意志」であって、モーパッサンの世界に個人の「自由」、
あるいは言いかえれば「偶然」は存在するのかどうかは重要な問題だ。
『モントリオル』『死の如く強し』の引用から、後者に見られる「時間の不可逆性」という
主題に焦点が当てられ、記憶の扱われ方はベルクソンプルーストの先駆けとも言えると
指摘された後、人間の内の獣性を歌ったモーパッサンの内には、絶えず死への苦悩が共存
することへと話が移り、続きは次回、という展開。
「哲学」というにはなんとなく素朴すぎるような気がしないでもないけれど、
人間のありようについての追求という限りにおいて、ここで述べられているようなことも
確かに「哲学」と言ってよいのだろう。matérialismeを「物質主義」とするか「唯物論
と訳すかが純然たる日本語だけの問題であれば、philosophieもまた「哲学」とするよりも
ここでは「知」の全体という意味で理解しておきたい。モーパッサンが人間の「ありよう」
から決して目を逸らすことがなかったのは絶対に間違いのないことだ。


ところで今のフランス人はペシミズム、レアリズム、マテリアリズムとismeをイズムと
濁って発音するのがどうも普通のようで、へーと思いながら聴いている。どうなんだろう。