えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ラジオ第4回

前半がモーパッサン哲学の表面なら後半は裏面であり、すなわち死についての苦悩がテーマ。
ジャン・サレムの要約に従えば、要点は
1.「老い」への恐怖。短編「別れ」"Adieu"などに顕著。
2.二つ目はモーパッサンに顕著な、死後の「腐敗」に対する嫌悪と恐怖。
  普通、「快楽主義者」にとって官能は死を忘却する瞬間であるのに対し、
  モーパッサンにおいては性と死は絶えず密接に結びついていること。「腐敗」への嫌悪については
  インド人の習慣を描いた短編「火葬」が特に注目に値する。
3.唯一無二、一心同体とまで思った相手の死と別れ。『女の一生』『死の如く強し』など。
  その苦悩の激しさは「狂気」に著しく接近すると同時に、ある種の宗教性を喚起するが、
  そこからモーパッサンと神との複雑な関係が発生する。
4.ゴンクールの語によるところの、我々を取り囲む状況の「無情性」impitoyabilitéについての認識。
  神が世界を作ったなら、なぜ世界にはかくも不幸と悲惨が横溢しているのか。
  「悪」の存在は弁神論を巡って古来より問われ続けてきた主題でもある。モーパッサンの論理に従えば、
  神は存在しない。あるいは存在するとするならば、神は「意地悪」なのだ。
  神に対する激しい論告は、未完の長編『アンジェリュス』に最もはっきりと見られる。
  ジャン・サレムによれば、ここにはショーペンハウアーと同時にマルキ・ド・サドの思想が見てとれる。
  死への苦悩と神への信仰は密接に関わるものだが、ジャン・サレムは、モーパッサンユイスマンス
  ように、回心への途上にあったとは考えない。

Pour reprendre le mot barbare forgé par Goncourt, il se lamente sur l'impitoyabilté de notre condition.
ゴンクールによる耳慣れない言葉をもう一度持ち出すなら、彼は我々のありようの「無情性」を嘆いているのです。

ということで前後半2回分。モーパッサンにおける
神の存在の問題は確かに難しい問題である。私も、トルストイが言い、後の研究者ピエール・コニーが
示唆するように、彼が長生きすればやがて回心したであろうとは考えない。(もっともコニーの書
『神なき人モーパッサン』は、モーパッサンパスカルが「神なき人間の悲惨」として描いたところと
近い人間観を持っていたということを詳しく論じている限りで重要な書ではある)
それは彼が教会の聖職者を嫌っていたことは明々白々たるところだからだ。
だがそうだからといって、彼が神の存在を信じていなかったと簡単には断言できないのは、
番組でも触れられた通り、神に対する呪詛といっていい言葉が短編「モワロン」や
『アンジェリュス』に記されているからで、あまつさえ『アンジェリュス』の最後のページ、
すなわちモーパッサンの真の絶筆がまさしくそれだった、という事実があるからだ。
モーパッサンは憎むために神の存在を必要とした。この世の悲惨と無情の理由を、彼は神に帰する。
それがレトリックの問題でしかないのか、作者はまじで真剣だったのか。それを判定することは
我々には不可能だといっていい。いずれにせよ、彼が神の「存在」を心の底で信じていたとしても
それはすなわち救済の期待には繋がらない。
今日の日本に生きる者にとって、こういう問題の真に意味するところは理解しにくいのであるけれど、
ユイスマンスは回心し、レオン・ブロワという神秘主義者の変人もいて、ポール・ブールジェのような
保守主義者にとってカトリックへの帰依は極めて重要であり、ジッドなんかはそれで悩みまくって
大変だった(らしい)、というような時代だった。もちろん、みんなごく真剣だったのである。
だから19世紀フランスはライシテ一本の道を突き進んだというほど話は簡単ではない。
簡単でないので最近のモーパッサン研究者はこういう問題にはあんまり踏み込まない。
それはともかく、今回の番組を聞いていて、
私が『エラクリウス』に輪廻思想が出てくることの意味は何ぞや。それはモーパッサンが20代の時点ですでに
人間の実存の問題を抱えていたからだ、という風に出した暫定的な答は、やはりそんなに間違ってない
はずだよな、という風には思ったのである。