えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

校正する

やらないと絶対に後で後悔するものでありながら、
見た目にすぐ成果の出るものでもない(出たら問題だ)地味さが校正にはつきまとう。
こういうのは何に似ているのだろう。


「小説論」の訳語についてのメモ。
・はじめはカナのまま残していた「レアリスム」は最終的に(公約どうりに)「現実主義」としてみる。
「レアリスム」の語には1850年代頃の一文学運動(シャンフルリー、デュランティー)の含意が
あるので、「リアリズム」としてしまうのはどうしても引っかかるところがある。
写実主義」は、断固として却下である。
・これもはじめはカナ書きだった「イリュージョニスム」は「幻影主義」とひとまずして、
「イリュージョニスム」とルビを振りたいところながら、ホームページではそうも出来ないので
(イリュージョニスム)を後ろに付す。その前に「イリュージョン」の訳語が問題なわけで、
これは結果的に杉捷夫(新潮文庫)に倣って「幻影」とする。要するに「幻」であって
客観的に(なんという厭な語だ、とモーパッサンは言う)存在しない、いわば「幻覚」である。
・「ヴィジョン」の語だけは、今のとこカナのまま残っている。杉訳は「視像」となっていて、
意味はその通りなんだけど、ちと固い。「個人的世界観」という時の「観」であるが、「光景」とするのも
語弊があり(やはり「客観的」に存在しないものだから)、いい言葉がまだ見つからない。
ヴィジョンのままでもよさそうな気はするけれど、日本語化した英語ならそれでいいのか、という
疑問が残らないわけではない、ような気がなんとなくする。日本語に該当する語がないならやむを得ない
という話はあるかもしれない。漢語ならいいという話でもなかろうし。むずかしい。
・"Travaillez" の一語はそのまま「仕事をしたまえ」としてみたが、「勤しみたまえ」とか「頑張りたまえ」
とかでもいいかもしれないとやや迷う。杉訳は「精を出したまえ」
「私は精を出した」と次行に続くのは、なんとなくもう一つな気がするのである。
この "Je travaillai" の一語に、作者の「密かな」自負を読みとりたい。
訳語として重要なのは、とりあえずそんなところだろうか。
ところで「唾棄すべきドラマ」とはもちろん『レチュヌ伯爵夫人』(決定稿)であり、残っていない
ことはなくて残っていたのは、後世のものとしては喜ばしい。ここのモーパッサンの言葉によれば
彼はコントもヌーヴェルも師フロベールに見せたらしいが、現存する二人の交換書簡においては、
どちらの語も見られないのである。「脂肪の塊」も、モーパッサンは校正段階になるまで見せなかった。
二人の書簡集を出したイヴァン・ルクレールは、だからモーパッサンは『三つの物語』の著者フロベール
ライヴァル関係に自分の身を置くことを敬遠したのではないか、と推測している。
推測でしかなく、決定的な答は出ない。
だがしかし、「小説家モーパッサン」の真の誕生は、フロベールの死を待たねばならなかった
という仮説にはそれなりの説得力がある。フロベールは急逝したので、もし彼がまだ生きていたら
と推測することは難しいけれど、もしそうだったら、モーパッサンは今我々の知るモーパッサンとは
違っていたかもしれない。その可能性は決して小さくはないだろう。
おっと余談が過ぎた。では就寝。