えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

白鳥「モウパツサン」(1)

行きがかり上、これを読もう。
正宗白鳥、「モウパツサン」、『モウパツサン』、文藝春秋社、1948年所収
正宗白鳥全集』、第22巻、福武書店、1985年より。
別冊文藝春秋』に四回にわたって連載されたエッセーで、収録のエッセー集の題が「モウパツサン」
というのが凄いところだ。
冒頭はR. H. Sherard のモウパツサン評伝(知らないなあ)*1を読んだ話から始まり、
丸山熊雄訳の短編集を読んで、五十年昔にモーパッサンを読んだ頃を思い出し、
また改めて英訳(ダンスタン版)を再読してみた、その感想ということである。
二回目は『女の一生』英訳
三回目は『死の如く強し』杉捷夫訳
四回目は『ベラミ』杉捷夫訳
について主に語っている。
この評論について語りにくいのは、実に「徒然なるまま」の日本的エッセーであって、
論理的展開なんかないし、これといった結論があるわけでもないから。
おまけに白鳥の文章は推量「〜かも知れない」、疑問「〜であらうか」がやたらに多いのである。
えーい、はっきりせんかい、と言いたくなる。
そういうわけで気になる箇所を順に引くだけにならざるをえない。
たとえば白鳥は、久し振りに再読して「このフランスの天才の小説のうまさに心打たれた」という。

(前略)彼の作品は千變萬化してゐる。面白く讀ませる技術を心得てゐること彼の如きは稀なのであらう。眞實の叙述、有りのまゝの描寫は尊むべき事であるが、モウパツサンは、眞實世界から取つた材料を、自己の空想の境地に面白く幻出させてゐるやうだ。(359-360頁)

このただの写実ではない、という見解は実作者のものでもあろうが、貴重である。
白鳥は次いで短編「Lost」について語り

(前略)さまざまな彼の短篇のうち、ロスト見たやうに落語染みた作品も少なくないのだが、我々はそれ等を人生味の深いものとして見るのは、作家の背景に由るのである。厭世憎人の感じを蓄へてゐて、つひに狂死するに至つたモウパツサンといふ天才の作品だと思へばこそ、落語的猥談的作品は、深刻な意味がありさうに思へるのである。由来藝術の鑑賞は多くさうなのだ。(361頁)

こういう皮肉な見解が白鳥らしいところか。なかなか痛いところをついているようでもある。
がしかし、「ロスト」はこれまた贋作なのである。無念なるかな。
次は証言として大事なところ。前回とややかぶるけれども引用。

 自然主義勃興前後の日本の文壇では、モウパツサンの小説はよく讀まれたものである。私は學生時代に柳田國男氏が、「これは田山の本だが讀んで見ろ。」と云つて英譯の『ベラミー』を貸してくれたので、暑中休暇に讀むことは讀んだが、左程面白いとは思はなかつた。田山花袋は日光の古本屋で、"Odd number" と題する英譯のモウパツサン短篇集を購入して讀んで、はじめてこのフランスの流行作家の作品に接し、國木田とか柳田とか云ふやうな友人にも勸めて讀ませたさうだが、この文集は、英國向きの健全な作品ばかり集められてゐるのだ。それでモウパツサンは、こんな作家かと獨斷してゐたのであつたが、そのうち、赤い表紙の粗悪な英譯本の全集が來たので、我も我もと面白がつて讀むやうになり、短くつて、解り易くつて、話の筋が面白くつて、翻譯稼ぎの材料には、誂へ向きなので、いろいろな文人の筆であちらこちらの雑誌にこのフランスの小説の重譯が掲げられるやうになつた。私も二三篇は翻譯した。國木田獨歩も早くから『糸くづ』といふ一篇を翻譯してゐるが(中略)獨歩の翻譯も案外うまいと感じた。(365-366頁)

田山花袋の件は、花袋自身の言葉を信じるなら多少誤りがある。
モーパッサン翻訳ブームの内実を、こんなに率直な言葉で語った人も他にいるまい。貴重だ。
それはそうと国木田独歩に関して

(前略)近代日本の優れた短篇作家である彼も、フランスの世界的短篇作家には遠く及ばないと感じた。獨歩全集のなかで、『糸くづ』が特に光つてゐるから不思議だ。(366頁)

は酷すぎるでしょう。「糸くづ」は岩波文庫新潮文庫の『武蔵野』の最後に入っているから簡単に読める。
確かにいい訳だけれども、しかし独歩の短編は抑制された筆致と独特の悲愁感において、
モーパッサンと違う独自性と完成度をしっかり備えている、と私は思うよ。
長いけど、もう少しがんばろう。

 モウパツサン論も斷片的に現れだした。早速日本の西鶴に比較された。田山花袋などはモウパツサンについて大いに學ばんとしたやうであつた。青い表装の新しい英譯全集が丸善に來たのは、明治四十年頃、自然主義全盛時代であつて、私などはこの全集によつて、この作家に親しむやうになつたのである。しかし歐州近代の文學に關する我々の理解は甚だ淺はかであつたらしく、私なども、トルストイの『モウパツサン論』くらゐを金科玉條として、それを標準にこの作家の作品を鑑賞してゐた程度であつた。トルストイほどの人も驚嘆してゐたであらうほどに、この作家の小説技巧は群作家を抜いてゐるのであらうし、話しつ振りの面白さは無類と云つていゝのであらうと斷定してゐた。彼が彼として書くべきものを十數年の間に書きつくして、サツサとこの世を去つたのは、小気味のいゝ生涯であつたと云つてよからうと、かねて思つてゐた。(366頁)

というところで第一回が終わる。疲れたので今日はここまでにしよう。
モーパッサン西鶴と比較したのは田山花袋が有名。
トルストイモーパッサン論は、きわめて道徳主義的(っていうかな)な読みとして有名なもので、
女の一生』は『レ・ミゼラブル』以来の傑作と絶賛している辺りも、特殊ではある。
それはともかく、島崎藤村もこれについてエッセーを残しているのであって、このトルストイ読みが
日本の読者に与えた影響は無視できないものがあるのだ。のだ。

*1:Webcatで検索:Robert Harborough Sherard, The life, work, and evil fate of Guy de Maupassant (gentilhomme de lettres), London, T.W. Laurie, 1926.