えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「青春夢」とはなにか

明治時代だけでモーパッサンの翻訳件数は200を超えるとされているのだけれど、
では日本におけるモーパッサンの初訳は何か。
という件のおさらい。
三遊亭円朝の「名人長二」は「親殺し」の一種の翻案で、
明治28年4月28日から6月15日まで「中央新聞」に連載された。
これが「最初」ということだけれども、ま、直接本人が「訳した」わけではない。
次は明治30(1897)年2月10日及び25日、『家庭雑誌』に掲載された
築地庵主人訳「首輪」が、分かっている中で一番古い。本名、人見一太郎
これがたまげるのは、主人公が大井花子、フォレスチエ夫人は芳野夫人
舞台は東京で銀座の天賞堂で五千円で首輪を購うのだ。
一番びっくりするのは一人称で語られることで、「翻案」ってすごい。
それはともかくも、日本では65回も翻訳が世に出たという、漱石先生のご批判でも
とかくに日本で有名な「首飾り」が、最初の翻訳(翻案だけど)だった、というのは
因縁あさからぬ話ではあるまいか。
で、その次に
国木田独歩、「糸くづ」、『国民之友』、明治31年3月
田山花袋、「二兵卒」、『少年文集』臨時増刊号、4月20日
が続くわけだけれども、
毎度お世話になりまくりの
ナダ出版センター刊行の『大正期翻訳文学画像集成 雑誌編 第5巻モーパッサン集』CDロム
(編集 川戸道昭、中林良雄、榊原貴教)には、
「青春夢」、ギー、ド、マウパッサン作、質軒居士譯、『文芸倶楽部』、明治30(1897)年6月
というのがあるのである。
これは一体何なのか。
転載させていただきます。

折しも冬寒くして樹々は緑の衣(きぬ)を剝がれ、
  萬象みな惨憺たる光景の中に窮死し、
  大地も猶白妙の屍帠(ランスール)に蔽はる。
    正に是れ臘月(しはす)の末の頃。』
救世(ぐせい)のために神去(かんざ)りし我が基督(キリスト)の、
  その降誕會(こうたんゑ)を修(しや)せんとて、
  一夜人々御寺に集ひ、
    尊(たふと)き聖僧(ひじり)の説法するを聴聞す。』

えー、なにこれー。こんな詩あったっけー。と私は思いましたね。途中まで偽物じゃないかと
思ってしまいましたが、
しかしよく考えればこれは
"Rêverie dans la chapelle" という、モーパッサン若干17歳、イヴトーの神学校に通っていた頃の
詩なのだ。「チャペルでの夢想」とでもいうんでしょうか。
なんと栄えあるモーパッサン訳2番目は、そういう超マイナー作品だったのだ。

聞説(きくなら)く神は萬(よろづ)の財産(たから)を人間(ひと)に頒(わか)てり、
    人生幾何時(いくばくとき)ぞ只神を尊み敬ひて、
    天の賜物(たまもの)の恵みの露に沾(うるは)へかしとて、
  かゝるめでたき人間の
      果報を稱へて讃歎す。』

この辺はまだ分かるけど、だんだん読めない漢字が頻出して書き写すのも大変なこの作品が
よもや17歳の少年がミサの間に綴ったという他愛のない習作であろうとは、一体誰が気づこうか。
まだミュッセの洗礼さえ受けていない田舎の子ですよ要するに。

何物ぞ、今我が心を衝て促す、
  我に愛あり、我れ青春あり。
  我れ愛せんか、我れ愛の爲に死せむ。
  我れ死する時熱血脈中を走りて我が軀を焼かむ。
  我れ獨り語り、獨り大檞樹下に伏して泣く。

なんともすごい(このへんだいぶ意訳になっている)。
この詩篇、エマニュエル・ヴァンサンの注釈*1によれば、
La Nouvelle Revue, 1er avril 1897
Revue des revues, 15 avril 1897
に出たのが最初ということ。それが同じ年の6月に訳されたわけであるから、
なんともホットなネタだったのだねこれが。しかも、つまりは
相当高い確率でこれがフランス語原文からの翻訳第1号ということにもなる。
詩の内容は、夢の中で美しい少女に出会って恋をして、その子の額に口づけした
瞬間に夢から覚めました、というもので、お坊さんは天国への道は狭く険しいという、
それも大事だけれどでもやっぱりこの世では恋したい、

天の神にも求むべく、
意中の人にも求むべし、
あらゆる道を踏みてこそ、
疑ひ晴るゝよしはあれ。』
始めは廣き道をゆかむ、
青春を爰に委ねなむ。
多年我れ愛卿と共に老いば、
兩個の頭髪共に白かるべく、
兩個の恩情亦枯れ萎みて、
前途の幸福誰か得て望まむ。
爾時神前長帽の人、
兩個の爲に狭隘嶮峻の道を造らむ。
嶮道行き盡して更に艱なるに至らば、
乃ち天神の手づから引援し給ふあらむ。

という、なんとも調子のよい歌(話)なのだ。
要するにキリスト教は、このころすでに半ばからかいの対象と化しているのだけれど、
なんか全然そんな感じがしないのは不思議だ。
一体、質軒居士とは誰なのか。
『文芸倶楽部』には明治34年4月に、「有髪尼」("Le Pardon" 「ゆるし」の翻案)、
明治37年2月には「生弁天」("L'Inutile Beauté" こと「あだ花」)、
同年11月にも「豚林」("Ce cochon de Morin" 「モランの豚野郎」)を
長田秋濤(1871-1915)が訳している。秋山勇造*2先生によれば
尾崎紅葉との共訳『鐘楼守』(『ノートルダム・ド・パリ』)をはじめとした翻訳は、いずれもフランス語から
の訳であり、「生弁天」もその筈だとのことである。
そうすると確証はないけれど、「青春夢」を訳した質軒居士というのも長田秋濤のことでは
あるまいか。と思われるのである。
だからって何がどうなるわけでもありませんが。

*1:Guy de Maupassant, Des vers et autres poèmes, textes établis par Emmanuel Vincent, Publications de l'Université de Rouen, 2001, p. 389.

*2:『埋もれた翻訳―近代文学の開拓者たち』、新読書社、1998年、285頁