えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

一段落

「日本におけるモーパッサン」15枚の原稿がとりあえず出来上がる。
自然主義荷風について詳しく論じ、作家以外の一般の受容については
翻訳の量と内容につきながら、百年分を概観する。オーソドックスといえば
まあオーソドックスなもの。しかしまあ、当たり前の話ではあるが、
「日本人はモーパッサンをどう受容してきたか」なんていう大きな問いに
答えるのは簡単ではない。ある意味では全然分からない、と言ってもいい。
いきおい一般的、抽象的な論に落ちざるをえず、つまりは
艶笑譚が受けたとか、厭世思想に共感がもたれた、あるいは幻想小説への恒常的な興味
ということでまとめることになる。多分、それは間違っていない。
間違っていないけれど、ふーん、まあそうだよねー。というところで話が落ち着くと
どうにも発展性がない。むずかしいものだ。本当はもう少し深く、
日本文化に潜在するエートスモーパッサンのそれとがどこで共振しうるのか
という話に持って行きたい、という希望はある。それは実は「諸行無常」とか
「月日は百代の過客にして」とかいう世界観のことかもしれず、言い換えると
モーパッサンの文学がとことん「現世的」であるということであり、加藤周一にならえば
彼岸よりも此岸、抽象より具体、全体よりも細部へ、という日本文学全体の傾向
と、優に250は超すモーパッサンの短編に、断片的、個別的に描かれる「現実世界」
のヴィジョンとの共振、というようなことかもしれない。
という風に今思ってみたのだけれど、どうだろう。
そうすると、たとえば芥川龍之介、たとえば志賀直哉なんかの短編の世界と
モーパッサンのそれとを、影響とはまったく無関係なところで比較する
という行為に、実は何がしかの鍵が隠れているのかもしれない。
というようなことも思ってみる。
もっとも、今日モーパッサンが読まれているのは勿論日本だけではない。
以前のCRINモーパッサン特集号には、
ウクライナルーマニア、アラブ世界における受容についての論文が載っているし
(揃って、モーパッサンは格別読まれているフランスの作家だというのである)、
英米圏では昔から(フランスよりも)モーパッサンが評価されてきた。
サマセット・モームモーパッサンに多くを学んだことも有名だ。
彼等はモーパッサンに何を読んだか。
という視点もまた、何が日本特有であり、何がそうでないのかを明らかにする助けになるだろう。
なんでもかんでも日本的受容というわけでは、もちろん無いのだ。
問いが大きければ、それに対するアプローチも自ずから多様になる。
折に触れ、いろんな角度から接近していければいいかな、ということで、
これは一つの宿題ということになろう。