えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

論文のけじめに

改めて考えるにつけ、要するに、
作家永井荷風の「構成要素」というものを考えるなら、
その内の何パーセントかは確実にモーパッサンから成っている。
ということなのだ。
度合は『あめりか物語』の時は相当高く(推定30パーセント程度、適当だけど)
ふらんす物語』では大分下がり、成分としては「ボードレール」の含有率が高くなる。
しかしながら帰国後も恒常的に数パーセントは含まれているに違いない。
それは消化されて成分と化しているので、一時的な影響とかそういうものでは既に無い
ということが重要だと思うのである。言い換えれば、
今日我々が知るような永井荷風の姿は、彼がモーパッサンと出会っていなければ実現しなかった。
数パーセント分確実に「味が違」った筈だ、ということになる。
だから、永井荷風を考えるとするならば、構成要素モーパッサンを抜きにしては駄目なんですよ
という風に、私としては言いたいのだね。
もっとも論文の中でそんなことを言うているわけはないので、
論文で言いたかったことの一つは、実は「先生はえらい」ということなのである。
(そういうわけで内田樹先生に勝手に恩を負うている。)
永井荷風モーパッサンを「先生」と呼んだ。私が知る限りでは、彼はボードレール
マラルメも「先生」と呼んだことはない筈だ。そこには確かに違いがある。
その違いをしっかり認識する必要がありはしないか。
確かに帰国後の荷風はかつてのモーパッサン偏愛を隠すようになり、モーパッサンなんてもう古い
といわんばかりの姿勢をとるようになる。
だがそれは、いわば彼がモーパッサン学校を「卒業」した、ということであり、
かつて一度はモーパッサンを先生としたという事実は、変わらない。
そして、青年永井壮吉がアメリカ滞在中に「成長」を遂げることができた一つの理由も
実はそこにこそあった、という風に帰結されるのである。
そして、もっと言うならば、
帰国後の彼があんまり簡単に「卒業」しちゃったということは、ちょっとばかし問題ではなかったか
という風なことを、ひそかに思ったりもするのである。


翻って、1880年、「脂肪の塊」の成功の直後に、モーパッサンは師フロベールを喪う。
小説家モーパッサンが真に誕生するのは間違いなくこの時である。
つまり、不可避的にフロベール学校から「卒業」することになった、ということと、
彼が作家として自立した、ということは密接に繋がっている。
だがしかし、モーパッサンにとって、フロベールは終生、唯一絶対の師でありつづけた。
ことの良し悪しは別として、彼はそのように生きることを宿命づけられていたし、
そのことによって、モーパッサンは今我々の知るような作家になった。
師に学んだ後、「作家」が誕生し、そして独自の道を歩いて行く過程の
二つの異なった型として、モーパッサン荷風を並べて考えてみると、
なんとなく感慨深いものがあるのである。


そして私はそういうことを書いた論文を、恩師の退職記念論集に掲載させて頂いた
ということなのですね、内緒ないしょの本当の核心は。
そうなんですよ。