えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

白鳥「モウパツサン」(2)

二回目以降の内容については、時代の証言として貴重な箇所は
それほど見られない。40年ぶりに読み返しての新たな感慨は、それはそれと
して聞くべきものもあるのではあるけれど。
そういうわけでめぼしいところだけを押さえるにとどめる。
たとえば『女の一生』を読んでの感想。

久し振りに面白い小説に接したやうな感じがした。この小説を私は、今から殆ど四十年も前、明治四十二三年の頃に、はじめて讀んだ筈であるが、あの時よりも今度の方が身に染みて感動させられたやうである。
(『正宗白鳥全集』第22巻、福武書店、1985年、367頁)

私にもいつかそういう日が来るだろうか、とか思ってしまうね。

女の一生』は、あり振れた一人の女の生涯を敍述してゐるのであるが、作者の意圖も、讀者の受ける感銘も、それはいろいろな人間の生涯の表現であり、あらゆる人間の夢のはかなさを描き出したものである。人間の夢のはかなさが、美しい繪のやうにそこに描かれ、快い音楽のやうにそこに唄はれてゐると云つていゝ。そして、全篇を貫いてゐる幻滅觀は、モウパツサンが物ごころのついて以来持つてゐたもので、それが作品をして眞に徹したものたらしめるのであらうと、私は宗教信仰同様に、モウパツサン文學について信仰してゐたものである。(368頁)

この辺、現在から過去への横滑りの見事なこと。で、しかし今となっては
小説なんてしょせん「絵空事」でしかないとも言えるのであり、
女の一生』には既にマンネリズムが認められる
てな皮肉をかますところが白鳥流である。

モウパツサンの厭世主義も、彼の文學的成功の一つの要素であつたと云はれる。(中略)それで、有名な作家が、現世の不公平や残酷を作中に活寫して厭世調を漂はせてゐると、讀者は自分の心の代辯者として喜ぶのである。(中略)
 モウパツサンの厭世觀は、對人對文學の彼の姿勢の一つであつたと云つていい。一つのポーズであつた。(369頁)

この辺の突き放した感じも、なんとも捕らえにくい人であることよ。
ついで『ピエールとジャン』のお話。

(前略)全體の趣向は簡單であり、ピエールの心理の動揺の敍述が大部分を占めてゐるに關らず、讀みかけると、作中に引き込まれて、しまひまで讀み通さずにはゐられないやうな、無類の作品であると云つていゝ。『女の一生』が、女性としての人生幻滅の物語であるとすると、これは、男の幻滅を敍したものゝやうである。(中略)この小説は、私に取っては、輕井澤で、近づく冬を知らせる晩秋のつめたい風に吹かれてゐるやうな淋しさが連想される小説である。(371頁)

この辺りなかなかいいことを言っている。が続けて芭蕉のような「風流な淋しさ」ではなく、
「甚だ無風流な幻滅感である」というのだね。ま、分からんでもないけども。

(前略)人間努力の効なきことを表現したやうな文學が、いつの世にでも、明朗的樂天文學よりも、人の心を惹きさうに思はれるのは何故であらうか。これ等、私に取つていつまでも解決されない問題である。(373頁)

この後、第三回は『死の如く強し』、第四回は『ベラミ』についてだが、
前者は「少しだらしのない作品のやう」(377頁)に思われたが、
「作者がモウパツサンであることから、考へ直してみると、讀後に次第に面白くなつた」という。
後者は「長つたらしい感じ」がしたそうで、
つまるところ白鳥の趣味趣向が明確に出ているということだろうか。
ま、結論があるような文章ではないので引用はここまでにしよう。
つまるところ40年ぶりにモーパッサンを読み返してみれば意外にも面白く読みふけり、
色々と思うことがあった、ということを綴った随想である。各長編に対する自分の印象と
比較対照するによいかもしれない。
モーパッサンは上手い、ということと、彼の漂わす「厭世感」が格別に白鳥の関心の的
となっている、という風にまとめてもよいかもしれない。自然主義とつかず離れず、
一生を文学に捧げてきた人の、素朴と言えば素朴な感慨が、その二点に凝縮されている
のである。
深くはない。というか白鳥はいたずらに深刻ぶる姿勢を明らかに敬遠している。
だがそれ故に、ここにはある種の誠実さ、というか率直さが認められるのであって、
このシニカルな感じは、それとして私は嫌いではない。