えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

パリの経験

Une aventure parisienne, 1881
(というわけで今更変えるのも何なのでイタリック。)
12月22日「ジル・ブラース」、モーフリニューズ。
『マドモアゼル・フィフィ』(初版、再版)に所収。
「ラ・ヴィ・ポピュレール」、1884年8月14日再録。
aventure は実際に起こった予想外な、驚くような事柄のことで、「冒険」よりは
「事件」に近いか。「パリでのアヴァンチュール」とするほど、これはロマンチックな話ではない。

 女性の抱く好奇心以上に激しい感情があるだろうか? おお!、夢にまで見たものを知り、見聞きし、手に触れること! そのために女のしないことがあろうか? 一人の女性は、好奇心が我慢できずに目覚めた時には、あらゆる愚かなこと、思いがけないことをしでかすし、まったく勇敢になって何物にもたじろがないだろう。私が語っているのは真に女性らしい女性についてであり、その精神はあの三重底になっていて、表面では理性的で冷静に見えながら、その秘密の三重の仕切りの内は次のもので占められている。一つは、いつでも動揺している女性特有の不安、また一方は良心をもって成される彩りある策略、詭弁的であり恐るべき信心家のあの策略だ。そして最後には、魅惑的な猥らさ、悦楽の裏切り、甘美な不実さ、すなわちあらゆる背徳的な性質であって、それが、愚かなほどに信じやすい愛人を自殺に追いやるのだが、また他の男達を魅了するのである。
 私が彼女の体験をお話したいと思う女性は、地方に住む小柄な女で、その時までは平凡なほどに貞淑だった。
(1巻329ページ)

彼女は結婚していて、夫は忙しく、二人の子供がいる。
しかし彼女の心は抑えがたい好奇心に捕らわれていて、パリのことを思い、新聞の社交欄に胸を
躍らせている。

 彼方から、彼女は豪奢であり堕落した贅沢の頂点にあるパリを眺めていた。
(329ページ)

たった一度だけでもパリの官能の波に身を投げたことのないままに人生を終えるのは
耐えられないと、遂に彼女は口実を作って一人パリへ出かける。

 そして彼女は探した。大通りを巡ったが何も目に入らず、入ったのはただ番号づけられ彷徨している悪徳だけだった。彼女は視線で大きなカフェを探り、『フィガロ』紙の小さな通信欄を注意深く読んだ。それは毎朝、警鐘のように、愛の呼び声のように見えていたものだった。
 しかし決して、芸術家や女優達のあの大饗宴の痕跡の上に、彼女が立つことはなかった。
(330ページ)

諦めかけたある日、日本の置物を並べる古道具屋で、腹の出た大きな人形(だるま?)を前に
逡巡している禿て太った小男が、有名な作家のジャン・ヴァランであることを知った彼女は
勇んで店の中に入ってゆき、男の代わりに人形を買い取り、それを男に譲るといってきかない。
言うことをきく代わりの条件として、彼女はその日一日、自分の言うことを聞いてくれるように
男に言う。
そして彼女は男について(あるいは強要して)、ブーローニュの森へ出かけ、カフェでアプサントを飲み
作家の友人達に紹介され、驚喜して頭の中で繰り返す。「遂に、遂に!」
夕食をとった後、劇場で観客の注目をあび、そのまま男の部屋までついてゆく・・・。


この作品を読んで思い出すのはやはり『ボヴァリー夫人』である。が、ここでは
ロマンチスムは完全に排除されている。あるいは卑俗な現実の中に埋没してしまっている。
男の醜さにも目が留らずに盲目的に行動した後、彼女に待っているのは
ただ幻滅の苦い涙だけだ。そこには波乱さえ存在してはいない。
バルザックの『田舎ミューズ』と同型の物語でもある。夢想と現実、地方とパリとの
対比は、バルザック以来のレアリスム小説が語る一つの物語の型だ。けれど
でも彼女はディナーのように特別な存在であるわけでもない。つまり、
モーパッサンの世界においては、既にあまりにも詩情の余地はなく、あまりにも索漠としている
という印象は否めない(かもしれない)。だがそれ故にこそここには一層の真実味が
ある、と言えるのかもしれないし、あるいはそうではないかもしれない。
(作者がそのように考えていただろうとは推察される。)
いずれにせよ、この幻滅は『女の一生』のジャンヌのそれとも確かに呼応している。
ちょうどこの長編に再度取りかかろうとする頃の作品であるのは、故のないことでは
ないだろう。
「いつもはこの時間に何をなさるの?」と繰り返し、やみくもに男についていく主人公の
姿はヒステリックであり、滑稽に描かれている。けれどもやはり、
翌朝、男に問われて答える彼女の台詞、

「私は知りたかったの・・・その・・・悪いことを・・・でも・・・でも・・・面白くもないものね」
(335ページ)

は、その短い言葉の内に彼女の思いのたけを籠めていて胸を衝かれる。
彼女が逃げ出した先、朝のパリの街には清掃人夫達が仕事の最中、
通りから通りへと操り人形のような動作で道を掃く男たちの姿ばかりが目に入る。

 そして、彼女の内でもまた、誰かが何かを掃き出し、溝へと、下水へと追いやったばかりの様が見えるようだった、彼女の異常に掻き立てられた夢々が。
(335ページ)

そういえばこれは「目ざめ」veil,1883 とも通じる
作品であることを思い出したけれど、ロマンチックな詩情が一切「掃き出された」後に残る
この感興こそ、モーパッサンが見出した「現実の内なる詩情」の一つであったかもしれない。