えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ヴェルレーヌ『歌詞のない恋歌』論文

倉方健作、「『歌詞のない恋歌』における伝記的要素 −非人称的詩法とヴェルレーヌの自己表象―」、『日本フランス語フランス文学会 関東支部論集』、第16号、2007年、p. 189-202.
Romances sans paroles (1874)においてヴェルレーヌ
模索していた新しい詩法を筆者は「非人称的」なものと位置づけている。
詩人自身の感情吐露を排し、音楽・絵画の効果を取り入れながら、
「読み手との交感の場となるひとつの雰囲気を念入りに形成する」という詩学
しかし一方、後年のヴェルレーヌは詩の中に自伝的要素を表明してゆくようによなり、
そのこともあって、『歌詞のない恋歌』の作品をも伝記との関わりで解読しようとする
読解の在り方が長らく根強かった。
だがそのような「読解」を招いてしまう原因はヴェルレーヌの側にもあったのであり、
詩集に収められた"Birds in the night", "Child wife" にはとりわけ伝記的要素が
濃く、それ故に詩集全体の中で異色なものとなっている。
「非人称的手法」と「自己表象」との間の齟齬を、ではヴェルレーヌ自身はどのように
考えていたのか、ということを巡って本論文は展開されている。
後年の再販の際に問題の2詩篇が削除されていること等から、
作者が『歌詞のない恋歌』の特殊性を十分に意識していたことは
確かである一方、80年代後半のランボー「発見」の時流の中で、
「第一発見者」を自負するヴェルレーヌは、そのことを強調するためにも
「喜ビサマヨフ男タチ」のような詩篇に伝記的要素を半ば露悪的に表していった。
「伝記的要素」を巡っての詩人自身の逡巡を通して、
詩人自身が「おそらく最も独創的」と自負した詩集に対する「両面的な愛着」
が理解されることになる。


というのが粗雑で申し訳ないながら本論の要旨で、
フロベールなんかのように生涯首尾一貫して破綻のない人は、
ある意味研究者にとっては論じやすい面もある一方、
ヴェルレーヌのように、恐らく理論家である以上に遙かに感性優先の実作者
(と思うんだけど違ってるかしら)を相手にする場合、
論じる側にもある種の柔軟さが要求されるのではないか、
というようなことを思う。
がしかし、その曖昧というか捕らえどころがないところにこそ、
人間性そのものというものは存在すると私は思うし、
多面的なものは多面的なものとして取りこぼさないことが
大切なのだと思うわけで、私には面白い。そういう意味で、
論者の苦労を(勝手に)推察しながら、面白く読めた
好論文、ということで僭越ながら一筆したためました。


あとはさらに個人的雑想。
ヴェルレーヌの詩法を「非人称的」と捉えるところが素人の私には
まずもって興味ある点で、それは私自身がモーパッサンの「詩法」を
語る際に同じ語を使っているからに他ならない。もちろん私の
というかモーパッサンの場合はフロベールの美学の受け継ぎであるので
文脈は違うし、意味するところも違う。にもかかわらず
恐らくは、ロマン主義的な感情吐露だらだらの抒情詩に対する
(という言い方は勿論、19世紀後半特有の批判的視線から言うのであって
ロマン主義の詩は「そういうものだ」と私が言うのではない。
対象の価値を切り下げておいた上でこれを批判し、超克を図る
というのはいつの時代にも新しい世代が前の世代に対して行うこと
であって、現にモーパッサンだって同じ目にあった。レアリスムは
ただの表面の「模倣」に過ぎない、というのがそれだ。)
反動という点において、両者は動機を同じくしていたのだろう
と推察される(のだけれどどうなのだろう、というのが
個人的に知りたいことの第一)。
しかし「非人称的」であるということと「抒情的」であるということは
相反するものではない、ということをヴェルレーヌの詩ははっきり
示している(と思われる)。モーパッサンで言いかえると、
「非人称的」であることと「客観的 objectif」であることとは違い、
「無感動 impassible」であることとも違う。
これは大変大切な、モーパッサンの美学の根幹に関わることだと
私は考えているわけで、ではそれは具体的にどういうことで、
どのようにして実現されるのであろうか、というのが問題だ。
そういうわけで同時代のヴェルレーヌの新しい詩学の在り方
というものにも遠巻きながら関心を寄せているわけで、
研究者の今後の活躍にも期待するのである。


という言葉がおためごかしに聞こえてしまわないことを
祈りつつ。