えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

散文的アカデミー談義

さて、なんとも恐ろしいことには、
5月1日から2週間、我が家はネット不通になってしまうのである。
前もってお知らせしておきますので、
音信不通でも怒らないでね。
いやしかし、依存度高い今日、私は耐えていけるのだろうか。


それはそうと、
叩けば増えるポケットの如く、本日もまた貴重なことを教えて
もらって、まことに有難いことなのである。
その中のこの話、
面白すぎて黙っていられないので、ご紹介させてください。
Kさんがフランス人の友人から聞いた、その友人も友人から聞いた
というアカデミー小話なり。

ある文学者がアカデミー入会を期待して食事会を開いた。
そこに会員中の有力者モーリヤックも招かれていたが、
彼は出されたワインを見て「これは何かね?」と聞いた。
文学者は意図がわからず「ワインですが」と答えると、
「そうは見えないな」と言い、結局モーリヤックの
協力は得られず、文学者の入会は失敗に終わった。
ボルドーの大作家にブルゴーニュワインを供したという
ひとつの過ちが、彼にアカデミーの扉を永久に閉ざしたのだ。

いやーすごいなあ。
この話のミソは言うまでもなく、件のアカデミー会員が
モーリヤックである、というところにある。
単に彼がボルドー出身だったというだけでなく、
彼ならいかにもこういうこともやりそうなんだな。
(て偏見のかたまりの暴言ですが。)
実によく出来た小話だけれど、しかしまあ
恐らくは作り話でしょう。いくらなんでも、ねえ。


アカデミーの選挙は現会員(39人ないしそれ以下、欠員補充であり、
複数人同時に選ぶことも多い)による選挙なので、
要は20人からの投票を得られればいいのである。だもんで
選挙前には候補者が各会員を詣でる習慣となっていて、
つまりは根回しあってなんぼの政治の世界なのだ。
本人が詩人といえども、これはなんとも散文的な話だし、
Kさんおっしゃる通り、政治性以前に「社交性」の方が
よっぽど大事かもしれない、という裏事情がある。
上の小話もまあそこから生まれてきたもので、
古いところではゴーチエにも似たような話があるらしい。


こうなってくると20世紀におけるアカデミーというのも
気になってくるところだけれど、さすがにそこまで手を
出している余裕はない。徐々にであれ、小説家が幅を
利かせるようになってゆくだろうという予測は立つし、
件のマイノリティー取り込み柔軟化路線というのも
アカデミー自体の生存戦略としてうかがわれるに違いない。
言い換えればそれは、アカデミーの権威が漸次失われてゆく
過程でもある。危機感がなければ懐柔はありえない。
(若い作家がガリマールよりミニュイを選ぶとか
そういうような話の延長に、アカデミーなんかどうでもいい
という風潮はあるに違いない、というようなこと。)
とはいえ、女性最初のアカデミー入会は、
1980年のマルグリット・ユルスナールという事実は、
並の保守ぶりではないことをよく示している。
ユルスナールという作家は、普通の意味で
女性であることを表に出すこと最も少なかった
作家である、と思う。コレット(アカデミー・ゴンクール
とかサガンとかボーヴォワールとか(絶対入らんだろうけど)は
駄目だけど、彼女ならまあよしってことだったんだろうか。
しかしまあ、よく知らない20世紀のことを憶測ばかりで
語っても仕方ない。


話を19世紀に戻す。
百年分の会員の顔を全部眺めるという、普通の人があんまり
しないことをした恩恵として、私が学んだことが少なくとも一つ
あって、それは、
意外なほどに歴史家が多い、という事実である。
ま、意外でもなんでもないかもしれないんだけど。
ちなみにアカデミー会員になれるのは、政治家か学者か、
文学者か、聖職者か(稀に)軍人。「学者」の中で
理科系はずい分少なく、哲学者少々、言語学者少々、
あとは主に歴史家である。
これは何故かという私見を述べよう。
第一に、歴史家というのは、不可避的に著述家になる
ということ。歴史という物語(フランス語はどちらも
同じイストワール)は文に綴ってなんぼで、しかも
それは何冊もの本になるはずのものである。
そうである以上、優れた歴史家たるには文才が
どうしても求められよう。
モーパッサンに言わせるとチエールはただの歴史家だが
ミシュレは文才があるので「芸術家」なのだ。)
これは実際的、ないし美学的な理由。
もう一点はもっとイデオロギーよりの理由である。
歴史、それもフランス史を調査し、確定し、記述するという
行為は、当然のごとくナショナル・イデオロギーと直結する。
「国民史」の編纂は、国家意識の育成と顕彰において
「正しいフランス語を確定する」というアカデミーの主旨
と大変近しいところにある。ギゾーみたいに
歴史家兼政治家という人が少なからずいるのも
そのことをよく示す事実だろう。
要するに「正しいフランス史を正しいフランス語で記述し
正しく愛国的に活動する政治家」以上に、
アカデミー・フランセーズに相応しい人間はいない
ということである。
だからまあ、当たり前といえば、当たり前な話なんだな。
正しくないフランス史(腐敗した第二帝政)を正しくないフランス語(俗語)
で記述し、正しくない愛国的活動(社会主義)に目覚めちゃったような
田舎出の出自不明(外国人の血まじり)の小説家(卑しい職業)
であるところのゾラという人が、いかに声を張り上げようと
何しようと、アカデミーの門戸が開くはずのないことは
ゾラ自身だって十分に承知していたのであるけども、
それでも選挙の度に必ず出馬しつづけることによって、
彼は兆発することをやめなかった。タフなんである。


さて、もう一点、私が考えておきたいことがあるとすれば、
それは政治体制とアカデミーの関係である。
革命政府がアカデミーをぶっつぶすのは、貴族イデオロギー
牙城みたいなもんなんだから当然でありながら、
ナポレオンは早々にこれを復活させた(んだと思うけど要調査。)
ま、王政にせよ帝政にせよ、頭が変わるだけで
要は中央集権国家であるから(乱暴な意見だねえ)
アカデミーの存続自体にさしたる問題は
なかったかもしれない(そりゃまあ派閥闘争はあったでしょうが)。
しかし1870年を機に、フランスは第三共和制を樹立し、
10年かけてようやく盤石な基盤を得るに至るわけである。
この時点でもう一度アカデミーをぶっつぶすという手もないでは
なかったと思うのだけれど、しかしアカデミーは生き残った。
この時、アカデミーはなんらかの軌道修正を求められたり
するようなことはなかったのだろうか
ということがよく分からないながら、なんとなく気になる。
というかそもそも共和制下における右というのが
私にはもひとつよく理解できなくて、
昨日までは左側だった人が実質的に右側に移ったような
ものなんでしょ。だからって右だった人が左に行くわけで
はなくて、これはもっと右に追いやられるのである
(か、あるいは弾き飛ばされる。)
最右翼にカトリック、ブルボン派(いるんだこれが)ボナパルト
中道右派中道左派が穏健共和派で、もっと左にラディカル社会主義
最左翼に共産主義アナーキスト
中道右派中道左派の区別なんてあってなきが如きで、
(あとは組閣を巡って政権争いするだけである)
要するに真ん中に共和派がどかんと占めたので、
これで共和制も安泰だあ、ということだったと思うんだけど。
なんか間違ってるでしょうか。
こういう情勢下における「保守の牙城」というのは
分かったような分からんような代物ではなかろうか
とまあ、思ったりするのである。
ま、無知をさらけるのもほどほどにして、
本日も駄弁はこれぐらいにしておきましょう。