えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

妄談つづき

共和制下になって右の人がさらに右に追いやられた
と昨日書いてから、そのことについて勝手に考えつづける。
その帰結は極端な保守反動に他なるまい。
ブーランジスムとかドリュモンの登場とかは、そういう意味で
共和制の生んだ鬼子、ということがあるいは言えるのかもしれない。
ま、実際のとこブーランジスムには極左まで連なっていたそうなので
実態はそんなに簡単なもんではない。
共和制下のアカデミーに戻ると、選択肢としては
共和制的になるというかなんというか、体制の主流にあわせて
柔軟路線をとるというのもあったかもしれない。しかし
アカデミーはその方向を選ばなかった。
実際問題としてそうすると、それこそゾラみたいな人まで
受け入れないわけにはいかなくなり、そんなことをしたら
(まずおまけに小判鮫ポール・アレクシがもれなくついてきて)、
自然主義一派の有象無象がどかどか押しかけてくることになり
あまつさえアンリ・ベックなんかが押しかけて来た日には
何を言い出したもんだか分かったもんではない。
(前任者を罵倒して入会した翌日からアカデミー廃止を叫ぶとか。)
文学者はともかく(しょせん学士院全体から見たら常に少数なんだし)
左派の政治家とかなんとか、歯止めがかからなくなったら
保守もへったくれも何もなくなってしまう。
だからこれは全然現実的ではない。そうすると可能性としては
それまでのありかたを断固死守する、ということになるわけで
これは大勢から見れば、一層保守化するように見えざるをえまい。
帝政まではなんだかんだ言って、政治的主流とアカデミーは
軌を一にしていられたのだけれども、共和制下においては
政治的主流「よりも」多かれ少なかれ保守的な集団、
それがアカデミーということになるのではないだろうか。
それもつまり保守反動の一つであり、
その徴候が露呈した時に、
アカデミーは反ドレフュスの牙城になった。
うーむ、平仄があっているじゃないか。


とまあ勝手なことを記してはみたけれど、うわ言みたいな
ものなので、真面目に受け取ってはいけませんよ。
それはそうと余談ながら、「自然主義一派の有象無象」
の先頭を切るのはもちろんモーパッサン、エニック、
セアール、ユイスマンス、アレクシ(ス)という
1880年『メダンの夕べ』組である。多くは田舎出の
基本プチブルであり、最初は詩を書いたものも
あるが、皆すぐに散文に移り、ジャーナリズムで
金を稼ぎ、後に劇に関与したものは、主に自由劇場
関わった。
これだけの条件が既にして、アカデミー入会には
相当のハードルなんだね、ということが
なんとなく分かったような気がするなあ。
少なくとも50歳越えるまでは無理でしょう。
(厳然として「年の功」は存在するのだ。)
で彼等が50も越えるころに丁度良く?
アカデミー・ゴンクール設立となったわけである。
ちなみに、1900年に集まった最初の10人は
ユイスマンス、ミルボー、ロスニー兄弟、エニック、
ポール・マルグリット、ギュスターヴ・ジュフロワ、
レオン・ドーデ(父の代わり)、エレミール・ブールジュ
リュシアン・デカーヴ。
それはともかくとして、生年的にいって50年代、活動が
70年代以降のこの世代による自然主義流派の誕生が、
第三共和制の誕生と同時的であるということは、
単なる偶然ではないだろう、ということである。
共和国は自然主義的なものになるだろう、
さもなくば存在しないだろう、とゾラは言ったけれど、
そもそもからして自然主義こそが共和国的なものだった
のに違いない。アカデミー・ゴンクールもまた然り。
おお、一体文学場の自立とはどこの話なんだね
これ一体。「美学」の姿が見当たらないんですけど、
どうなってんですか。
クリストフ・シャルルでも一から勉強しなおしなさい
ということですな。
そういうわけでアカデミー妄談はこれにて御免。