えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

なぜむつかしいのだろう

月一回のマラルメの日。めでたい話つづき。
マラルメの詩はなぜむつかしいのか。
たぶん、
メタファーないしサンボルだけで詩が書かれているから。
普通に意味だけを取り出しても、何を言っているのか
まるで何も分からないのだ。
そのとき、詩の全体が発するメッセージとはすなわち
「私を解釈せよ」
というものに尽きるといってよかろう。
詩は解かれるべき謎として、読者の前に存在するかのように
思われる。
この謎に対する「解答」は果たしてたった一つなのかどうか
それは恐らく誰にも分からない。作者マラルメにとっては
一つしかなかったのかどうかも、今となっては分からないし、
マラルメ研究者にとってさえ意見が分かれる以上、
現に多様な解釈が存在しうる、というその事実だけに意味がある。
いわゆる「開かれた」テクスト。
「言いたいこと」を表現するために「テクスト」が存在するのではなく、
書かれたテクストが、書かれたその時点において複数の意味を
内包するに至る。形式(言葉)と内容(意味)に関する
プラトン式伝統に対する根本的転換が、恐らくはマラルメによって
初めて成し遂げられたということ。
たぶん、そういうようなこと。


原理的にはそういうこととしても、
しかし解釈は無限の可能性に開かれているわけではない。
少なくとも、普通の研究者は統一的な「一つの解釈」を
要求し、それを画定するために、あるいは伝記的な
あるいはテクスト間の連関を頼りに、
すなわち統一的な自我としての作者マラルメを拠り所に、
より正解に近いであろう読解を試みてきた。
揺れというか幅というかは常に存在するにせよ、
結局のところ、そこから導き出される解答とは
「私は詩が書けない」
という一つの確認である、という点において
およそ研究者の見解は一致を見るといっていいだろう。
詩を書くことは不可能である、ということを述べること
だけがかろうじで、詩の制作を可能にするということ。
マラルメの韻文詩の多くはそういう、いわゆる「メタ詩」
であるわけで、詩の生成の(あるいは不在の)場こそが
詩に残された可能性であるという認識、
それもまた一つの、マラルメの発見だった。


1842年生まれのマラルメは、ロマン主義から数えて三代目、
ユゴーボードレールの後にもはや(オリジナルな)詩を書く
ことは不可能だという諦観に行き着く。あるいはその諦観から
出発する以外に詩を書く道はないという認識から出発する。
それはつまり、そもそも「詩」とは何であるか、という問いを、
詩人が真に自覚的に問わざるをえなくなった、という事実を
意味しよう。詩はもはや自明ではない。それは現に存在するもの
ではない。現に存在する「詩」を表現することが、人を詩人に
するのではない。
では詩とは何なのか。


それは恐らくは、現に存在しないものであろう。現に存在しないものは
原理的に言って実現不可能なものである。
それは荒唐無稽な夢想というようなもののことではない。
想像しうるものとは、想像しうる限りにおいて既に実現の可能性を
内包している。あるいは想像の内に既にそれは実現している。
おそらくは想像さえしえないもの。ただそれが存在しうるという
予感を抱くことだけができるようなもの。
(そういうものが「存在」するのではない。存在しないものを
存在しないものとして想定し、それをこそ詩と名付けるのだ。
それを神と呼ばないのは、彼が詩人であるからに他ならない。
それが宗教でないとすれば、詩は別に人間を救済してくれるわけ
ではないからだろう。しかし原理的に不可能なものを追求する
ことによって詩に「殉ずる」時に、詩人は少なくとも特別な何者かに
恐らくはより人間的な何者かになる。)
詩が不可能となった時、不可能こそが詩となる、というようなこと。
自らを詩人であると任じながら、なおかつ詩を書くことは原理的に
不可能であると認識する時、それでも詩を書こうとするならば、
詩が書き得るとするならば。その時、唯一導き出されうる解答
とは、マラルメが現に残した、決して多いとは言えない
韻文詩のことに他なるまい。


言うまでもなく、そういうものとして書かれた詩はぜんぜん「豊か」ではない。
不毛そのものと言ってよろしかろうし、
そのような詩は、それによって「不可能」を可能ならしめるものでもない。
だから、そのような詩は理想の実現ではない。ないけれど、
それしかないのだ。詩は書けない。詩は不可能であるという否定
の言辞は、しかし否定の内に、不可能なものとしての詩の存在の
可能性(のようなもの)を指し示す。「ここにはない」という断言は
「ここではないどこか」にそれが存在するということを間接的に
述べている。(「ここにはないどかにある」という肯定を直接に述べる
ことはできない。「どこか」はどことも指示できない場だから。)
詩とは否定によってしか暗示することのできないもののこと。
だから、詩人は繰り返し「詩の不在」だけを「詩」とされる形式
(されているのであって、ソネであれば「詩」ということには
理屈から言ってなるまい。それはただの「韻文」だ)において
言及する。詩人とはもはや詩を詠ずるもののことではない。
詩の不在と不可能とを確認するものが、
この世界においては逆説的に詩人と呼ばれるのである。


というような勝手極まりない放言を書き散らしたりなんか
しちゃっていいものだろうか。
以上は私のまったく個人的なマラルメについての「解釈」
でしかありません。どうぞそのようにご理解くださりますように。