えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

食後叢書の仏語原本

モーパッサンの英訳短編集、
「食後叢書」こと The After Dinner Series が元にした
フランス語原書はなんだろうか。
それを突き止めるには、そもそも「食後叢書」はいつ出たのかが
まず問題だ。
大英図書館のカタログには1896年発行と書かれていて
田山花袋は明治34(1901)年に、少なくとも11巻までを入手した。
大英図書館の根拠が何なのかは分からないけれど、まあ
1896年から1901年の間に出たことは間違いないだろう。
そうするとコナール版(1908-1910)はありえない。
問題はオランドルフ版全集で、1899-1904の間に出たらしいけど
各巻がいつ出たかの詳細は今のとこ不明。
なので「食後叢書」は、
96年に少なくとも最初の巻が出たとしても、99年以降、
ランドルフ版の挿絵入全集を参照した可能性は
多少なりと残る、という点をとりあえず考慮しなければいけない。
一方のダンスタン(1903)は、オランドルフをかなりの程度参照できた
可能性がある。
しかしまあ、「食後叢書」は基本的にはやはりオリジナルの版を
使用したのではないかという気はする。


というのを前提にして、とりあえず「食後叢書」とフランス語オリジナル
とを対照させてみる。
するとどうか。
1巻は、1884年『ロンドリ姉妹』
2巻は、1887年『ル・オルラ』を元にしているが
ただし全部を載録している訳ではない。
なるほど、そうだったか。


しかし3巻以降はぐちゃぐちゃなんである。
3巻は『オルラ』から1編。『パラン氏』から1編。
『昼夜物語』から1編。『あだ花』から1編。
そして『山鴫物語』から5編である。
これは一体、どうなってんですか。
そしてもちろん、4巻以降は偽作ざんまいである。
4巻は19編中16編が偽物で、残りは
『マドモワゼル・フィフィ』表題作、および『メゾン・テリエ』から
表題作と「いなか娘の話」の計3編。
5巻は21編中19編が偽作で、
『イヴェット』から「ベルト」「捨てた子」の2編のみ真作。
6巻は18編中、12編偽作で、残りは
『マドモワゼル・フィフィ』『山鴫』『メゾン・テリエ』『イヴェット』
から各1編で、『左手』から2編の計6編。
7巻は22編中10編偽物で、
『フィフィ嬢』から9編、『左手』2編、『テリエ』1編。
8巻は11編中偽作7編で、
『左手』1編、『テリエ』1編、『フィフィ嬢』2編。
9巻は10編中、偽作は2編で、
『あだ花』3編、『テリエ』2編、『左手』1編、『ミス・ハリエット』2編。
10巻は15編あって、
『ミス・ハリエット』1編、『左手』7編、『ロックの娘』6編
で実は前言撤回で"The dead mistress"は原典まだ未確認だけど、
6巻「死んだ女」の重複かこれは? だったら『左手』なんだけど。


まるで意図的に組み直したみたいにばらばらであって、
これは一体何を意味しているのだろうか。
何故偽作混入が起こったのかの理由が推測できるのではないか
と思ったのが大間違いで、まったく何考えてんだか意味不明だ。
それとも何か深い理由が存在するのだろうか。


それはそうと、しかしハニガンだかハンニガンだかによる残り2冊
については、これは実に明快な答が出たのである。
11巻は、1899年オランドルフ刊行の『ミロンじいさん』Le Père Milon
12巻は、1900年同じオランドルフの『行商人』Le Colporteur
そのままの翻訳だったのである。
(ただし12巻には『左手』から「ボワテル」「一夜」の2編を追加。
また、オランドルフ版の作品を「全部」収録しているかは未確認。)
うーむ、よく考えたら当然推測できそうなものを、今日まで気づかなかった。
この2冊は死後刊行の短編集で、オランドルフ版全集に含まれるもの。
著者生前未刊行(新聞発表のみ)の作品を集めた作品集だ。
ということで、この2冊はいずれも原著刊行後に翻訳されたものでしか
ありえないのである。
恐らくそれ以前から刊行の始まっていた「食後叢書」は
フランスで新しい作品集が出たのを機に、ほなそれも入れましょか
ということにしたのであろう。やれ10巻、いや11巻まで、なんの12巻
という混乱のもとも、そこに由来するに違いない。
というわけで12巻目の刊行は1900年より前ではありえない
ということが少なくとも分かるのだけれど、
牧さんまたまた見てますか。


とりあえず私としては、「食後叢書」が参照したであろう原著から
「食後叢書」が翻訳しなかった作品を拾い出して、なぜそれを
取らずに、あえて偽作を混ぜ込む(つうか4巻5巻は偽作集状態ですが)
ようなことになったのかを、引き続き検討してみたい
とは思うんだけど、まあその内に。
本当は自主的ないし当局による「検閲」がからんでいるのではないか
という予測を立てていたのだけれど、結果として真作が
「フィフィ嬢」と「いなか娘の話」とあまつさえ「メゾン・テリエ」だけ
残るような検閲って、一体なにを検閲しているのか意味分からん。
しかも差し替え?のメズロワもリシュパンも、お世辞にも
道徳的な作家とは呼べないのである。
しかしそれ以外に、いかなる理由が考えられるのか。
いやはや私には全然分かりません。誰か教えてください。