えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『詩集』という題

ところで、パスカル・デュランのフォリオテック
マラルメ『ポエジー』を読んでいたら48ページに
こんなことが書いてある。
Poésies という題の付け方は
ジュネット言うところのテマティックならぬレマティック rhématique
なもので、物としてのテクストそのものに言及する類のものである。
こういう題の付け方は18世紀までは普通だったけれど、
ロマン主義以降はオリジナル重視ですっかり廃れてしまった。
この一般的風潮の例外を成すのは、マラルメとイジドール・デュカス
ロートレアモン)のみである、と。
しかしモーパッサン唯一の詩集はずばりDes vers
であって、これは文字通りとれば『韻文』以外の何物も指し示すものではない。
無理やりに詩人モーパッサンを鼓吹するつもりがあるのではないけれど、
まあね、19世紀詩の専門家でモーパッサンの詩について言及している
人を私はまだ見たことないので、言うてみたくもなるのである。
モーパッサン最初の長編は Une vie であって
これは文字通りとれば『ある人生』とでもなるもので、テマティックではあるが、
しかしそれにしては何も言ってないに等しいような題である。
(小説はみんな「ある人生」を語るものではあるまいか)
フォレスチエ先生は『詩集』もこれに類するものだと言うけれど、
私はちょっと違うと思う。やっぱり性質が異なるのである。
モーパッサンは自分の処女作に何故こんな無粋な題をつけたのか。
その解釈はけっこう難しい。
ただ、モーパッサンはタイトルについて師フロベールにお伺いを立てていて、
フロベールは「是非それにしなさい」と答えている。
その点だけを考えても、これが少なくともフロベール
『三つのコント』に対する間接的なオマージュの意味を含んでいることは
間違いないだろうと思う。言いかえれば、フロベール的美学は
そんなとこにまできっちり浸透しているのである。
だから、モーパッサンの場合、文脈はマラルメとは違うところで、
レマティックなるタイトルが選択されているのではある。
それにしても『韻文』であって『詩』とさえ言わない詩集というのも
なかなか例がないのではないかと思うのだけど、どうなのだろう。
改めて考えてみるとなかなか興味深く、
いろいろ意味づけてもみたくなるのだけれど、
ま、そんなことを思い出しました、というお話です。