えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ユッソン夫人ご推薦の受賞者

Le Rosier de Mme Husson, 1887
「ヌーヴェル・ルヴュ」、6月15日
1888年3月にカンタン書店から独立した単行本、Habert Dysの挿絵入りで刊行。
10月に同じカンタンの同名の短編集に収録。
マニュスクリ一編存在。
語り手 Raoul Aubertin はノルマンディーのGisorsで列車事故で足止めを食い、
これを機に、その地に住む旧友Albert Marambort に会いに出かける。
すっかり田舎の生活に自足したマランボールは語り手を歓待し、美食に
ついて一説ぶち、食後に駅まで語り手を送りながら郷土自慢をする。
そこで出会った酔っ払いを、彼が「ユッソン夫人のバラ」と呼んだことから
その渾名の由来について、マランボールは語り始める。
「昔、この町に年を取ったご婦人がいて、大変貞淑で、美徳を擁護し、ユッソン夫人という名だった・・・」
当時、パリ近郊では貞淑な女性をrosière(バラ冠の少女)として賞を与える
習慣があった。そこでユッソン夫人はジゾールの町でもロジエールの賞を
作ろうと、マルー神父に相談する。
神父の挙げた候補者リストの女性達を、下女のフランソワーズが徹底的に
調べ上げると、一人また一人と消される。

 おしゃべりな女達が噂にしない娘はこの世には存在しないので、中傷を受けないで済んだ若い女性は、その土地には一人も見つからなかった。
(2巻、957ページ)

近隣の村にまで調査を広げても一人も見つからない。
そこでフランソワーズは、果物屋ヴィルジニーの息子イジドールなら大丈夫
だと請け負う。

彼の周知の貞節ぶりは、もう何年もジゾールの喜びの種となっており、町の会話の面白い題材、娘達の楽しみとなっていて、娘達は彼をからかっては楽しんでいた。二十歳を過ぎ、背が高く、不器用で、動きが鈍く、臆病で、商売で母を助けながら、日中はドアの前の椅子に座って、果物や野菜の皮をむいて過ごしていた。
(同)

娘ではなく男であることにユッソン夫人は悩むが、
大切なのは美徳だと神父に言われて納得し、
めでたくイジドールはロジエールならぬロジエとして賞を
受けることになった・・・。


長いので以下省略。
実にモーパッサンらしい(て安直な)軽快なコントの一編。
貞淑な女性は一人も存在しない、という風刺(なのか)もさることながら、
ロジエールじゃなくてロジエ(原義は「バラの木」)というのも笑わせる。
めでたく受賞式を終えてしたたかに酔っ払ったイジドールは、
ポケットに賞金500フランのあることを思い出し、
夜の町に消えて行く、という展開も実に皮肉。
行方不明だったイジドールは、やがて一文なしで泥酔しているところを
発見され、その後も酒癖が消えず、以後、
「ユッソン夫人のバラ」は酔っ払いの渾名として広まった
という結末に、マランボールの締めの台詞。

Un bienfait n'est jamais perdu.
善行に無駄はないのさ。
(2巻、965ページ)

は、いわゆる「情けは人のためならず」の格言であるが、
どう受け取っていいのやら、理解に苦しむ。
最後にジゾールの歴史と出身の著名人の名が挙げられて終わるのだが、
郷土愛に熱い地方人も、一種カリカチュアに描かれている
ものの、そんなに嫌味にもなっていない感じはする。


さてドラマの方は、原作を基にしつつシナリオは独自に
作ったという感じのものか。ジゾールで撮影したのかどうか
は残念ながらよく分からない。
よくあることながら、語りの枠を取っ払ってしまっているのは、
原作愛好家には不満なところかもしれない。
ユッソン夫人の偽善ぶりを誇張しているようなところもある
けれど、全体としてはまとまりがあって楽しんで観られる。
監督は Denis Malleval。