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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「文学研究」文化と帝国主義

エドワード・W・サイード、『文化と帝国主義』、大橋洋一 訳、みすず書房、2巻、1998、2001年
ハンチントンよりよっぽど分かりやすくは書かれていないので
なかなか歯ごたえのある本で、感銘というより衝撃を受ける。
(あえて言えばハンチントンとは知性の奥行がぜんぜん違い、
文明の衝突』が前提とする文化本質主義こそは、サイードが強く批判するところ
のものである。だから、と短絡的に結論を出したくもないけれど。)
巻末の訳者あとがきが大変見事なので、下手な要約をするのもはばかられるが、
まあ自分のために記しておく。
訳者の述べるように前半(19世紀)と後半(20世紀)とでは議論の中身がだいぶ
違うのであり、私にとってより大事なのは前半部だ。
芸術・文学を非政治的なものとして取り扱うことによって、
それが「普遍的」な価値を体現するものである、
と我々が看做し続けてきたことを著者は問題にし、
19世紀小説がいかに帝国主義と密接に結びついていたか、
帝国主義イデオロギーの再生産そのものであったかを、
ポストコロニアル時代の歴史観を踏まえ、
帝国と植民地の双方を視野におく「対比法」的な読解によって明らかにすること。
(粗雑に言えば)それが第二章の中心的な命題と言っていいかと思う。


以下、私的なことがらを少々。
私が19世紀フランス小説を何故研究するべきと考えていたかということを綱領的に述べれば(あるいはそれはただの自己正当化のための方便である)、それはこういうものになろう。
19世紀フランス小説は世界的見地からして、美学的に高度な達成を成し遂げたものであり、そこには地域・時代を越えた普遍的な価値が存在するがゆえに、これを次世代に伝達・継承していくことは世界的な使命というものである。
これは大げさなものいいだけど、「綱領」とは大げさなほど元気が出るものだから、これはこれでいい。いいのであるが、しかしこれではまさしくサイードの批判する西欧中心主義そのものに他ならない。私がフランス人であれば、それは自己批判すれば済むような話かもしれないが、私は日本人であるから話は一層滑稽でグロテスクでさえある。だからといって、じゃあ今日からポストコロニアル批評します、セゼールとサンゴールとファナンから読みましょう、というようなお気楽な話で済みもしないし、一方で、19世紀フランス小説を徹底的に政治的なものとして扱わなければならない、ということに対して、私はサイードのように不可避的な動機を内に抱えているわけでは、恐らくない。ついでに言えば工藤庸子、『ヨーロッパ文明批判序説』、東京大学出版会、2003年は、サイードの批判を正面から受けて書かれた日本人による研究であり、その広汎な資料読解は見事なものだけれど、私はこの本には不満がたくさんある。著者の「批判」が一体どこを向いているのか私にはよく分からないのだ。だがしかし、これまでのままでいいかと言えば、それではあまりに自己欺瞞が過ぎよう。
そういうわけで、我ながら阿呆みたいだが、
真面目に考える限りで私は結構困っているのである。
ということを卑屈なのでせせこましく記してみた。
とにかくも今の大仕事を終えた暁には、
私は自分の進むべき方向を考え直すことになるかもしれない。