えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ベッドのそばで

Au bord du lit, 1883
「ジル・ブラース」、10月23日、モーフリニューズ署名。
1886年、『ムッシュー・パラン』所収。
1888年、「ラ・ランテルヌ」、8月26日に再録。
ト書き(イタリック)と台詞のみからなる作品、
つまりは上演を前提としない脚本と言ってもいい。
夜会から帰宅したド・サリュール伯爵 comte de Sallure 夫妻の対話で、
最近愛人と別れた夫が、夜会で妻と親しくするビュレル Burel 氏に嫉妬し、
それまでないがしろにしていた妻マルグリットを口説くものの、
結婚は利害を共にする結合、社会的な関係でしかなく、心のつながりでは
ないという、かつての夫の言い分をたてに、妻は自分には愛人を持つ権利がある
と主張し、夫を退ける。それでも諦めない夫に対し、妻は、
男がこれまで愛人に払ってきたのと同等の金額、
つまりは月5000フランを自分に払えば、一緒に寝てもいいと言う。
夫は憤慨し、自分の妻に金を払うとは馬鹿げていると怒るが、
妻は許さない。最後に、観念した夫は妻に財布を投げつける・・・。
という、モーパッサンでなければ書けないような話。
モーパッサンの見るところの男女の関係、あるいは結婚観が
凝縮されているといっていいかもしれない。
結婚とは契約関係でしかなく、そこにおいて男女は対等であるべきで、
一方が契約違反をするならば、他方もそれと同等のことをすることが
許されるべきであり、それが嫌なら相応の対価を払うべし。
これほどドライな痴話喧嘩も珍しいが、ここには男に反抗する、
あるいは自立を守らんとする女性の声があり、中期から後期に至る
女性像の一つのタイプが素描されている点で、この作品は重要だと思う。
実際、作者はこの作品を膨らまして芝居にするが、
二幕を一幕に、また二幕に戻してタイトルも二転三転し、
劇場に提出することを逡巡し続けたあたりに、
モーパッサンの演劇に対する自信のなさというか不安のようなものが
表われており、デュマ・フィスらの手によって『家庭の平和』が
コメディー・フランセーズで上演されたのは1893年春、
作者はその時すでに病院の中であり、恐らくは自分の作品が上演される
ことを知ることはなかった。
そもそも、家庭内において夫に反抗する妻とは、70年代の戯曲、
『リュヌ伯爵夫人の裏切り』の主題そのものに他ならない、
ということがさらに意義深いものをもっていよう。
『家庭の平和』の完成度への疑念は、つとに70年代の苦い体験ゆえの
ものに他ならない一方、常に舞台を夢見ていたに違いないモーパッサン
舞台に上げようと考え続けた物語は、最初から最後まで、ある意味で
同じものだったわけだ。
この短編の最後は、妻が夫を受け入れることで、一応円く収まるのだが、
戯曲での重要な変更点は、言いなりのままに本当に金を払おうとした
夫に対し、自分が金で身を売るような女とみくびるな、と拒絶するところにある。
この一幕の末尾は見事と言っていい。
それでも『家庭の平和』が『人形の家』にならないのは、タイトルが示すように、
最終的に「平和」は維持されてしまうからである。
作者は喜劇という枠組みから逃れることができなかったし、同時に
女性の反抗の声を、最後まで貫かせることをしなかったという点に
男性作家としての彼の限界を見てとることができるだろうし、
なんだったら批判してもいいのかもしれない。
つい最近、フランスでこの『家庭の平和』が舞台にかかったが、
まあよほどのことがない限り、上演されることのない作品なのは、
結局、劇作家モーパッサン第三共和政の時代を超えることが
出来なかった、ということをはっきりと示すものだろう。
リラダンの『反抗』(1870)、イブセン『人形の家』(1879)と三作並べて
論じてみたら、ちょっと面白いかもしれない。
断っておくなら、ごりごり保守のデュマ・フィスなどは、
不倫した妻など殺してしまって構わない、とのたまってはばからなかった
時代のことだ。社会制度が女性の自立を許していないという時代には、
夫の顔に財布を叩きつけることが、マルグリットにできる精一杯のこと
だったのかも、あるいはしれない。
なんだか暗い話になってしもた。
いずれにせよ、「ベッドのそばで」もまた、「ジル・ブラース」的艶笑譚
を突き抜けている作品であることは、認めてよいように思う。


Chez Maupassant, 2e saison
の最後は30分もので、二日にわたる展開にして召使夫婦も出すなど、
相当脚色のあるものとなっている。夫があっさり金を払う、
というか小切手を切ってしまうところにちと問題があり、
(ところで、妻が自分名義の口座を持つことはできなかった
ような気がするんだけど、違ったかしらねえ)
原作にあるところの切迫感のようなものを、意図的に和らげて
しまっているように見える。その分見やすくはあるだろうけど。
監督は Jean-Daniel Verhaeghe。