えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

オリンピア

Olympia, 1938
ようやく気になっていたレニ・リーフェンシュタールの映画を観る。
・スターティング・ブロックがまだなくて、スコップで穴を掘っている。
・走り高跳がまだ背面跳びじゃない。
棒高跳も下がマットじゃなく砂場。
というようなことに素朴に驚く。
というようなことは「記録」映画の効用ではあるにせよ、
監督が真によく理解していたことは、
映像に写された身体は、既に生身の身体とは違うものである
ということで(たぶん)あり、そこにおいては、いかに
美しい映像を撮るか、ということに最大の関心がおかれている
ので、大胆な編集も辞さない、ということになる。
(体操や飛び込みの場面では、記録は美に完全に場を譲っているし、
マラソンのとこの感情の入れ方もなかなかすごい。)
鍛えられた身体は美しいものである、というのは彼らにしてみれば
常に古代ギリシアは模範であり理想だったのだから、恐らく新しい
ことではなかったとは思う。
けれど(たぶん)、アスリートの身体と運動とは「美しい」ものである
ということを、様々なカメラ技術を駆使することによって、
この映画は恐らくは初めてはっきりと世に知らしめた
(とりわけスローモーションとズームはとくにその効果が著しい)
のではないかと思う。そのインパクトを今日、想像的に追体験する
のはなかなか難しくて、率直にいえば、そんなにすごいのか
という気はしたのではある。しかしまあ、そういう「見方」は何も
変わっていないわけであるからして、今見ても全然古びていない、
ということも同時に言えるのではあった。
同時に、一見しただけでは政治的プロパガンダの効用がどれほど
あったのかも、ちょっと把握できないように思う。
「民族の祭典」には総統がちょこちょこでてくるが、ただのスポーツ好きの
おっさんにしか見えない。そのことがむしろイメージ操作であった
と言われると、なるほどそれはそうかもしれないと思うのだけれど。
この映画を観て「オリンピックはすごい」というか「スポーツってすごい」
とは思うにしても、「ナチス・ドイツってすごい」と思ったというのが
ちょっと想像しにくいのだけれど、しかし淀川長治さんが解説で、
日本人はみんなドイツびいきになった、とおっしゃっているので、
なるほど確かにそういうことであったのだろう。
そのへんのことをどこまで突き詰めて考えるかは、なかなかむつかしい。
個人的には総合馬術が良かったかなあと。