えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

2回目にそなえて

古代オリンピック概観。
1500年の時をはさんで「復活」した近代オリンピックが、
古代オリンピックとどれだけのつながりを持っているのかは
なかなかむつかしい問題ということ。
それはそうと、
もしクーベルタンがいなかったとしても、あるいは「近代オリンピック」は
誰かが始めたかもしれない。が、それが今まで続くものになったかどうかは
分からないし、今と同じようなものになった可能性はもっと低い。
それぐらい、クーベルタンの存在は今のオリンピックにとって決定的なものだった
ということは間違いないと思う。
もちろん、彼の手を離れてから80年の間にオリンピックが経験したことの多くは
彼が想像することさえできなかったものだし、今のオリンピックが、
クーベルタンの理想としたものを体現し続けているかどうかは分からない。
たとえば国連の「オリンピック休戦決議」(1994年リルハンメルより)は
実際のところ今までのところ実効力を持ってはいないけれども、
しかし「オリンピズム」なる理念のようなものを一途に掲げ続けている
競技大会なんて、オリンピック以外に存在しないと思う。
それはずいぶんと大したことではあるまいか。
そしてオリンピックが、あるいはIOCがそういう努力を続けているのは、
クーベルタンの尋常ならざる理想主義の賜物たるオリンピックの理念ないし
理想が、なんだかんだいっても、継承されているということを意味する。
オリンピックを勉強することは、オリンピックへの批判を導く
と私は思っていたのだけれど、実際はどうもそうではないらしい。
「オリンピック」なる実体のない概念自体は批判されるべきものではない。
問題は(あるとすれば)常に、オリンピックに関わる人間の側にだけ存在する。
そういうのって何に似ているのだろうか、
と思うのであるが、人間の作る概念とはまあ常にそういうような
もんであるような気もする。
てなことをまたぐだぐだ考えつつ、まあがんばれ。
その点、古代オリンピックは大昔の話であるので
これは楽しい。
8月のオリュンピア、灼熱の太陽の下で男達は全裸で互いの力を
競い合った。神に受け入れられるために。神に近づくために。
想像するだに大変暑苦しい話ではある。古代オリンピックのメインは
ゼウスの祭壇にささげるべく牡牛百頭を犠牲にすることであって、
それを燃やした灰を塗り固めて、祭壇はだんだんと大きくなっていったという。
私は思うのだけれど、ギリシャの人たちにはぜひとも
古代オリンピックを映画で再現してほしい。面白いと思うんだけど。
あ、しかしまあ、検閲にひっかかりますか。うーむ。