えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

体育の日

体育の日は東京オリンピックの開会式が10月10日だったことに
始まるのであり、それが13日になってどうすんだと思いつつ、
月曜が祝日とはなんとありがたいことであろうか。
それはそうと、そういうことはつまり東京オリンピックは10月に
やっておったわけである。アメリカのテレビ局の発言権の強くなった
現在ではおそらく考えられないことである。うむ。


ひとまず押さえておくべきであろうということで、
ピエール・ド・クベルタン、『オリンピックの回想』、カール・ディーム編、大島鎌吉 訳、ベースボール・マガジン社、1976年
表記が「クベルタン」であるのを知らずに入手に手間取る。
事実の記録的面が強い上に、肝心なところは妙に婉曲表現が目立ってなんか
変な回想ではあった。大事なところは全部マカルーンに引用されてるし。
しかし第1回オリンピック以降のクーベルタンの奮闘が垣間見える点で、
おまけに現在他に翻訳のない点で貴重であることは確かである。
フランスでは今年クーベルタンの伝記が出たりしたのであるが、
2012年には日本語でもクーベルタン掘り返しの仕事が見られたら
いいのになと思う。なにせオリンピック本は四年に一度しか出ない。
クーベルタン前半生についてすこぶる優れた伝記を記したマカルーンだが、
ジョン・J・マカルーン、「近代社会におけるオリンピックとスペクタクル理論」(光延明洋 訳)、『世界を映す鏡 シャリヴァリ・カーニヴァル・オリンピック』所収、高山宏 他訳、平凡社、1988年、387-442頁
はこれまた、屈指のオリンピック論である。
オリンピックの特性を「遊戯・儀式・祝祭・スペクタクル」の四要素の混淆と見る
だけなら成程であるが、論者はこれを入れ子構造の図式で読み、なおかつ
遊戯・儀式・祝祭の面の揺らぎと、帰結としてのスペクタクル性の優位を説いた
上で、現代社会における「スペクタクル」の意義へとさらに論の射程を広げる
その説得力と論のダイナミックさとは実に見事。
これだけのために本を買ってしまったのはいささか懐が痛みますけど。
さて一方、サイードの読後にオリンピックと続けば、当然のように
「文化帝国主義」という概念は気になるところである。
そこにどんぴしゃなのがこの本、
アレン・グットマン、『スポーツと帝国 近代スポーツと文化帝国主義』、谷川稔 他訳、昭和堂、1997年
イギリス・アメリカ発の近代スポーツの伝播と、それに対抗するトゥルネン、
伝統スポーツのありようを概観した後、
筆者は「スポーツの伝播は文化帝国主義か」という問いに答える。
スポーツの伝播は強国による「押し付け」に留まらず、
それを受容する側からの積極的・肯定的意味づけがなされうる点で、
政治・経済的なモデルによる説明は必ずしも適当ではない
として、論者は「文化帝国主義」に代えて「文化ヘゲモニー」の概念を用いる。
つまり「奴らのスポーツで奴らを倒す」ことは、
(旧)植民地・第三世界の者にとって
他に代え難い意義を持ち得るというのが著者の結論である。
「訳者解説」で石井昌幸氏がさらに批評を加えているのも重要で、
グットマンの論がイデオロギー性と無縁でないことは確かであり、
結論を簡単に下すことはできないとはいえ、重要な見解と言えよう。
しかしそのグットマンもことオリンピックに関しては明確な西洋中心主義を
確認しているのではあった。


そのことはやはり率直に認めてしかるべきである。
しかしまあ発祥からして西洋中心主義であるのは必然であったわけで、
IOCは頑固に非民主的な組織でありつづけている時、
「オリンピックは誰のものであるか」
ということをもう一度議論し直し、
アジア・アフリカ・南米の人達がこぞって「我々のオリンピック」を
要求するのでなければ、ことは変わらないであろう。もっとも
そうすることが必要なのかどうか、ということも疑問ではあって、
オリンピックはしょせんただの一競技大会と割り切ったって
それはそれでいいようなものである。という気もしないではない。
クーベルタンが今生きていたらなんと言うのだろうか。