えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

宗教としてのスポーツ

クーベルタンにとってのオリンピック私的まとめ。
クーベルタンにとってスポーツとは、精神と身体の調和のとれた
人格的に優れた人間を育て上げることに役立ち、平等な場で
公正なルールに則って競い合うことを通して、相手への尊敬と
相互理解が深められ、そのことを通して国際平和をもたらす
ものであった。だからこそ国際的スポーツの祭典が行われねば
ならず、それこそが古代オリンピックの復活に他ならなかった。
スポーツは宗教的であると彼は言い、オリンピックでは多くの
儀式が行われるのであるが、実際クーベルタンにとっては、
スポーツこそは、一切の理想を実現してくれるという点において
神なき時代の、そしてきわめて現世的なところの、
一個の崇拝と信仰の対象であった。
スポーツの祭典はそれ故に神聖にして侵すべからざるものとして
彼にとって存在した。死後、自らの心臓をオリンピアの地に埋葬
することによって、クーベルタンは文字通り、彼の心をオリンピック
に捧げたといえるが、その行為に、彼のオリンピック崇拝は
見事なまでに象徴されているわけである。
というわけで、オリンピズムとはすこぶる理想主義的であると
同時に教育的な「人生哲学」である。
国際的競技大会そのものの開催はかなりの程度時代の必然であり、
ヨーロッパ人にとって、それを「オリンピック」と名付けることは
自然なことでもあったはずで、その限りでいえば「近代オリンピック」
クーベルタンなくしても、あるいは誕生しえたかもしれない。
しかしながら、クーベルタンの唱えたネオ=オリンピズムの理念が
オリンピック憲章という形で後々まで、多かれ少なかれ継承されて
きた点に、「オリンピック」の特殊性が存在する。
問題は(問題とは常に「あるとすれば」の問題であるが)、そのことが
クーベルタンの手を離れた後のオリンピックの歴史にどれほどの作用を
及ぼしてきたのか、あるいはこなかったのか、という点にある。
オリンピックが理想を高く掲げれば掲げるほどに、理想と現実との落差は
皮肉にも余計に目につくことになる。なぜオリンピックが、
あるいはオリンピックばかりが批判にさらされることになるのか。
あるいはなぜにオリンピックはかくも時代時代の、場所場所のはらむ
社会的「問題」を引き寄せてしまうのか。それは単にオリンピックが
巨大なイベントへと成長したということだけによるものなのかどうか。
クーベルタンについて考える時、私が思うのは以上のようなこと。
とぐだぐだ述べつつ、まあがんばれ。