えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

寝違える

今年に入ってから頻繁に寝違えるのは何なのか。
それはそうと、オリンピック関連の読書はきりがない。
多木浩二、『スポーツを考える ―身体・資本・ナショナリズム』、ちくま新書、2006年(4刷)
は久し振りの期待はずれなり。
沢木耕太郎、『オリンピア ナチスの森で』、集英社文庫、2007年
は貴重な取材の賜物で、ベルリン五輪に参加した日本人選手について
大変よく分かる。つまるところは、
各人それぞれのオリンピックではあるけれど、多くの人にとって
遠路はるばるベルリンまで出かけて行く様子はまるで出征と大差なかった
ということをしみじみ思う。そういう時代だった。
一転かわって、
長井辰男、柳澤裕子、『薬まみれの英雄たち(スポーツ選手とドーピング)』、メトロポリタン出版、1996年
はタイトルは何だけど、医科大の先生が書いた
しごくまっとうなドーピングの教科書的書物
ドーピングというものについて理解が深まるものの、この件に関する
「実態」というのは、どこまで追いかけても曖昧さを逃れられない
ように思われる。一方で、本書では
医科大の先生なのでドーピングが悪であるというのは大前提なのは
当然のことながら(だって体に悪いから)、しかし私としては
ドーピングは悪であるという思想は、倫理的にどのように根拠づけられるのか
ということが気にかかる。その点を論じるジム・パリーとヴァシル・ギルギノフは、
『オリンピックのすべて』(大修館書店)の中で、ドーピング議論を通して、
スポーツにおけるアンフェアとは何であるのかを再考察する契機となる、
という提言で章を結んでいるが、
言い換えればアンチ・ドーピングを(根本的に)倫理的に根拠づけることは
不可能だと認めている(というように読める)。
ドーピングが危険という以前にある種のスポーツには危険がつきまとい、
それがアンフェアだというなら、たとえば先進国の選手が途上国の選手に対して
百パーセント公平だと誰が言いきれるのか、と反論することが
もしできるとすれば、極限の世界記録を求められるアスリートが
アナボリック・ステロイド(男性ホルモンは人体にそもそも存在する)
を使うことを人は何故悪と咎めるのか?
別に私はドーピングを肯定するつもりは毛頭ないけれど、
現にドーピング違反者が後を絶たない以上、
選手個人の倫理性を問題にするだけで済ましていても、
問題は何も解決しまい。ドーピングの問題は要するに
現代の競技スポーツが勝利至上主義と記録至上主義と不可分である
という事実の必然的帰結でしかない。レーザー・レーサー
高地トレーニングとテストステロンとは依ってくるところも、
目指すところも何ら変わらない。なぜ「薬」だけは駄目なんだろう。
(血液ドーピングは「薬」でさえない。)
確かなことに思えるのは、
ドーピングの問題とは、現代社会におけるスポーツとは何であるのか
という問いを導くものであり、そのことを考えない限り、
少なくとも議論は深まらないだろう、ということだ。
ドーピングが禁止されている限り、灰色ゾーンは常に存在し、
トップ・アスリートは疑いの目で見られ、検査の仕組みは複雑に
なる一方で、選手の人権を侵害してまで抜き打ちの徹底的な検査が
されねばならず、それにかかる費用も人手も嵩みつづける。
おそらくは。それってしょうがないことなんだろうか。