えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

白鳥とLost

長いけれど引用。久し振りの正宗白鳥

 "Lost" といふ簡にして要を得た小品がある。「戀は死よりも強し。だから、また、戀は最大な苦痛よりも強し。」という實例が提供されてゐるのだ。この小品の語るところによると、或る株式仲買人が若い男爵夫人を猛烈に戀慕してゐた。或る日博覽會を見物に出掛けて、夫人に接近する機會を得たのだが、その時、ロシアの毛皮商の賣店で黒貂の毛皮を見つけた夫人は、それが欲しくて欲しくてたまらなかつた。でも、四千ルーブルといふ値段票を見ると諦める外無くなつたのだが、そこを付け狙つた株屋は、「あなたのやうな美しい方を前に置いて、そのくらゐの金は何でも無いぢやありませんか。」と、お追從を云つた。そして、自分が買つて進呈したいから許してくれと云つた。男爵夫人はそれが戯談でないことを確め、「あなたを戀してゐる。」との相手の言葉を聞いて、「あなたは不埓の方だ。私は或る小説のなかのヴイナスが奴隷を鞭で打つたやうにあなたを打てるものなら。」と云つた。さうすると、株屋は「あなたの奴隷にならなりたいものだ。實際黒貂の毛皮を着て鞭を持つたあなたは、その小説のヒロインの繪姿によく似合つてゐるだらう。」と云ふ。それで、男爵夫人はふと思ひついたやうに契約した。私があなたを鞭で打つことを御承知なら、私も素直にあなたのお言葉を聞くことにすると云ふと、相手は大喜びで承諾した。
(「モウパツサン」(1947)、『正宗白鳥全集』、第二十二巻、評論四、福武書店、1985年、360-361頁)

この「ロスト」なる作品がモーパッサンのものではないことは、このブログに以前も記した。
白鳥の要約に問題はないけれど、彼が言い落としていることが一つあって、
それはこの株式仲買人は「ゲットー」出の「パレスチナの息子」
すなわちユダヤ人であること。男爵夫人は由緒正しき貴族なので、
身分差ゆえに、彼の求愛を侮辱と受け取り、だからして仕返しするのである。そういう時代だったわけだ。
さて白鳥は「ロスト」をダンスタン3巻で読んだに違いないが、
「食後叢書」では5巻、題は"Crash" となっている、ということが一つ。
一方、謎解きというのは分かってみれば簡単なものであるけれど、
ユダヤ人が出てきて、美女で毛皮で鞭である。
まだ確証はないけれど、この短編の真の作者はザッヘル=マゾッホに違いあるまい。
と、思うでしょう。しかしながら奇妙なことが一つあって、それは白鳥が
「或る小説」としか記さなかったものが、本文にはちゃんと明記されていることだ。

"This is outrageous," cried the energetic little woman. I could flog you like 'Venus in the Fur' did her slave."
(The Life Work of Henri René Guy de Maupassant, St. Dunstan Society, Akron, Ohio, 1903, t. 3, p. 200.)

(スミス版の最初の台詞は "Oh! I am in such a rage," the energetic little woman said;
こういう細部の相違はいったい何なのだろう。)
で、この『毛皮を着たヴィーナス』にはちゃんと注がついていて、もちろん、
"One of Sacher-Masoch's novels" となっているのである。
うーむ。これはザッヘル=マゾッホによる自己言及だと思うのではあるが、
だとするとこの人、なかなか面白い人である。
白鳥による要旨つづき。

毛皮と鞭とを夫人は身につけて、翌晩ひそかに株屋の來着を迎へた。先づ株屋の兩手を縛つて自分の前に跪づかせてから鞭を揮つた。斟酌なく、思ふ存分鞭打つた。哀れなる男は苦しさに呻きだした。はげしい拷問だ。しかし、一つ一つの毆打によつて自分は幸福に近づきつゝあるといふことで慰められてゐた。二十四度打つたあと、夫人は鞭を下に投げた。「さあ、もう一つで、」といふところで、事が停滯したのだ。「私は二十五度打つたあとで、あなたのお望みをかなへる約束しました。あなたはたつた二十四度打つたゞけです。それには證人がありますよ。」と、さう云つて夫人は、扉の向うの幕を開けた。彼女の夫と二人の紳士が微笑しながら入つて來た。その瞬間、戀ひした株式仲買人は、「しまった。」と、悲しげに呟いて、深い溜息を吐いた。
(正宗白鳥、前掲書、361頁)

"Lost!" は原文イタリックである。
残念ながら白鳥さんはその意味を出せていないように思われるのだけれど、
これは本来「食後」で "Crash!" となっていたのを、変えてしまったダンスタン版がいけない。
もちろん、主人公が株式仲買人である、という伏線あってのこの落ちであり、
ついでに言えば彼は取引失敗の後、慰みに1873年ウィーン万博に来ていたのである。
とっさに彼の口をついて出た台詞は、したがって、


暴落だ!


というようなことになるのではあるまいか。ま、こういうのは翻訳に困る。
そうすると、この原題は、仏語ならば恐らくは "Krach" なのだろう。
というかこの語はそもそもドイツ語であった。うーむ、よく出来ている。
ま、そういうわけで白鳥にいっぱいくらわせたのは、十中八九の確率で
ザッヘル=マゾッホだったと思うのである。さすがの白鳥さんも、まさか
そんなこととは、予想だにしなかったろうなあ。

 面白い「作り話」である。しかし哂ひ事ではないとも云へる。夏目漱石は、モウパツサンの『頸飾り』を批評して、道徳心の破壊を責めた。人間の努力を無視し冷笑する態度を非難したのだ。この戀せる株屋の話も、人間の苦勞を蔑視し、哂ひものにしたので、作者の態度は無慈悲だと云つていゝ。この株屋ばかりでなくはなくつて、大抵の人間は、希望を抱いて今日の苦痛に堪へてゐるのであるが、二十四度の打撃で停滯して、希望はつひに達せられずに終るのであらう。さまざまな彼の短篇のうち、ロスト見たやうに落語染みた作品も少なくないのだが、我々はそれ等を人生味の深いものとして見るのは、作家の背景に由るのである。厭世憎人の感じを蓄へてゐて、つひには狂死するに至つたモウパツサンといふ天才の作品だと思へばこそ、落語的猥談的作品は、深刻な意味がありさうに思へるのである。由来藝術の鑑賞は多くさうなのだ。
(同上、361頁)

実際にはこれがモーパッサンの作品ではなかった、という事実を知ることによって、
白鳥の言葉が、作者の予期しなかった説得力を持つようになる、というのは皮肉なことである。