えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

白亜の家の女

モーパッサン短篇集 白亜の家の女』、平野威馬雄 譯、翰林社、1946年
という本があり、タイトルからして問題ありなのは以前から知っていたのを
思いついて入手してみる。いやあ物好きだなあ。
目次を見てみよう。

1. メニュエット Menuet
2. むかしの紀念品 Vieux objets
3. 匂について Stable Perfume, On Parfumes (Sacher-Masoch, "Stall-Parfum", 5, 3)
4. ある夜の出來事 Une soirée ("Le maréchal des logis Varajou...")
5. ベラミイ(白と青) Blanc et bleu
6. マダム・ヘルメット Madame Hermet
7. 居酒屋の女 The Carter's Wench (Maizeroy, "La Fille aux rouliers", 7, 4) 
8. 戀の謝肉祭(ローズの話) Rose
9. 田園哀歌(ラ・マルティヌ) La Martine
10. 一夜 Un soir
11. 春來りなば Au printemps
12. むかしのひと Jadis
13. 白亜の家の女 A Night in Whitechapel (Richepin, "Ivres-morts", 6, 3)
14. 捕虜 Les Prisonniers
15. 自由主義者の凱歌(フュムロル侯) Le Marquis de Fumerol 
16. テリエ夫人の家 La Maison Tellier
附録

さて、平野威馬雄は1900年生まれ、ネットで見るところでは肩書きに「仏文学者」とある
のだけれども、仏文学者にして「マダム・ヘルメット」は前代未聞の訳であろう。
そもそも、偽作=英訳というのが明らかである以上、訳者が英訳を使っているのは間違いない。
一方で「メヌエット」は食後叢書になく、「マダム・エルメ」は
ダンスタンには入っていない(はずだけど、まだなんか間違ってんのかな)。
「匂いについて」と訳している以上、ダンスタン系列の後続の版のどれか
ということになるかと思うのだけれど、律儀に?未収録の作品を追加したような
ものがあるのだろうか。あるいは、平野威馬雄は仏語原本からの翻訳も入れているのか。
恐らく後者のような気がするが、だとするとも英語からもフランス語からも訳して
器用な人である。いささかいい加減じゃありませんか、と言いたい気もしないでもない。
なんにせよ、16編中3編が偽作なのでありました。はい。


平野威馬雄モーパッサンの作品集をたくさん出しているので、
他もあたってみたいと思うが、それはともかく、終戦直後から雨後の筍のごとくに
次々出たモーパッサン翻訳の中には、まだかようなイカモノが若干混じっていたのであった。
それにしても普通は「メゾン・テリエ」を表題作にしそうなものを、あえて
「白亜の家の女」を選ぶというのも凄いが、そもそも何なのであるか白亜の家とは。
ほんとの原作はジャン・リシュパンの「泥酔」であり、英題には明らかのように
これはロンドンのホワイトチャペルという地区を舞台にした話なのだな。

It was not, however, in order to arrive at that state of delicious, intellectual nullity, that we had gone to mysterious Whitechapel.
(The Life Work of Henri René Guy de Maupassant, St. Dunstan Society, Akron, Ohio, 1903, t. 3, p. 189.)

 と云つたからとて、わたくしたちが、あの奇怪千萬な白亜の家にでかけたのは、さうした甘い無心の境に入るためなどではゆめさらなかつたのである。
(『白亜の家の女』、平野威馬雄 訳、翰林社、1946年、194頁)

ちなみにリシュパンの作品集が出たのが1892年。
そうすると、1888年にホワイトチャペル地区で起こった「切り裂きジャック」の事件が、
ここでいう「ミステリアス」の含意するところかと思われるのだけれど、
当時、ここはいわゆる貧民街であったらしい。
というようなことは、今ならインターネットのおかげで私でも3分で分かってしまうのだけども、
1946年に「ホワイトチャペル」が何であるかを知るのは、なるほど容易ではなかったのだろうなあ。
さしもの平野威馬雄も「白い礼拝堂」では何のことか分からず、
苦肉の策として出てきたのが「白亜の家」であったのだろうか。
それにしても、その後居酒屋から居酒屋へ(「おちやや」が平野訳)飲み歩いた、と話が続いて、
もはやどこにも「白亜の家」は出てこない(当然である)のだが、そのへんはあんまり
気にならなかったのだろうか。そのまま表題作にしてしまうところが、なんとも豪傑ぶりだ。
というわけで、もの好きはもの好きなりに楽しめり。とか。