えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

1870年12月5日

戦争の頃のモーパッサンについておさらいする。
登録番号1591、2等兵ギ・ド・モーパッサンは最初、ヴァンセンヌの兵站部で書記をして、
8月の時点ではまだパリは守られると思っていたらしい。
が、9月にナポレオン三世はセダンでとっつかまり、
4日にはガンベッタとジュール・ファーヴルによって第三共和政が宣言される。
その時、我らがモーパッサンがどこにいたかはよく分からないが、
10月にはルアンに移っている。将軍 Briand はルアンを守り切ることに懐疑的で
右往左往した挙句、12月5日早朝に撤退が始まる。

潰走する軍と一緒に逃げ出しました。危うく捕まるところでしたよ。兵站部から将軍への伝令を伝えるために、前衛から後衛へ向かったんです。徒歩で15里歩きました。伝令のために前の晩は一晩中歩いたり走ったりした後、凍るような地下室で石の上に眠りました。この丈夫な脚がなかったら捕まっていました。僕はとても元気にしています。
(母親宛書簡、1870年末?)

ほんとのところはずっと後衛にいたから捕まる心配なんかなかったんですよ、
父親宛ての別の書簡に語っているので、母親を心配させつつ喜ばせたいという
息子の思いがこの手紙にはこもっているのだが、そこにできることなら手柄を
あげてみせたい、という若干二十歳の青年の夢というか希望というかを
読み取ることは許されるだろうか。
1878年発表の「ラレ中尉の結婚」は、その叶えられなかった夢を、
いわばペンによって実現させたものではなかっただろうか。
というのが、例のごとく一貫していることは確かな私の読みでござる。
この物語の舞台はルアン近郊で、ロワールの部隊は当時二つに分かれ、
一方は Chanzy 将軍が東方で翌年1月まで抵抗し、北部は Faidherbe の部隊が
12月19日に降伏しており、恐らく後者がモデルであろうとはフォレスチエ先生の注釈。
そして一帯がプロシア支配下におかれた中、ルアンからディエップへの通行が
認められることになり、それが「脂肪の塊」の時期となる。
その後、モーパッサンル・アーヴルに留まっている。
ジュール・ファーヴルは1月24日に休戦の交渉に入り、
ビスマルクは三週間の休戦を受け入れるが、
ディエップ、フェカン、オンフルールと次々にプロシア軍は侵攻。
モーパッサンは伯父のコルドム(コルニュデのモデル)のつてで、
3月にはエトルタに戻っている。
5月フランクフルトの協定締結。
モーパッサンは晴れて除隊かと思いきや、実はその後運悪く、
5年間の兵役に当たってしまうのである。
こういう場合の逃げ道としてあったのが兵役代理(1872年廃止)で、
文字通りに代わりをお金で買うのである。父親と一緒にあれこれ画策した
詳細はもう一つよく分かっていないながら、とにかくそのお陰で、
71年の年末に、モーパッサンは自由市民に戻ることがあいなった。
というようなお話。