えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

編集会議

日曜に会議。ぼちぼち進め。
焼き鳥の後、帰宅電車で、
横溝正史、『本陣殺人事件』、角川文庫、2008年改版25版
に読み耽る。
実にまあ禍々しいというかおどろおどろしい世界であることよ。
ところでこのお話などでは典型的に、
時(昭和10年代)、場所(田舎)、家系(由緒ある本陣)というのが
特異な犯罪を生み出す決定要因となっていることが窺える。
今さらながら、推理小説を支える世界観とは、
科学信奉に基づく実証主義に基づく決定論であってみれば、
これは19世紀リアリズム文学の正統なる嫡子以外の何物でもない。
(子供のもう一人は明らかにSFであるが、恐らくはファンタジーもある意味でそうである。)
ポーをご先祖に、ドイルとルブルランが世紀末に登場するのは、彼らが時代の
申し子であったということに他ならない。
爾来100年、ミステリーが今もさかんに書かれ読まれ続けるのは、
ごちごちの決定論的世界という「物語」が我々にとって今なお必要なのだ、という
以外にどう説明づければよいのかよく分からないけど、どういうことなのだろう。
それはそうとして、
現代社会をその原理において解明するというリアリズム文学が掲げた大層な命題は、
現代の犯罪は現代社会の孕む歪みの反映である、と考えるいわゆる「社会派」の
作品に大なり小なり受け継がれていると言ってよいとすれば、一方の本格物も、
そのイデオロギー面においては、なんら相反するものを抱えているわけではあるまい、とか。
ではここにおいて禍々しいものとは何だろうか。
それはつまり、伝統とか因習とか家名とかいう、明治以前の日本という狭い意味においての
前近代的なもろもろであり、それは当然の如く田舎において根強く残っているものだった。
とすると、これは近代的イデオロギー前近代的なるものを召喚した上でもって
これを「お祓い」するという「物語」だった、という風に読んでよろしいのではなかろうか。
戦後の日本の推理小説はそういうものから出発したのだ、
というのは、なんというか、理に適ったことではあるまいか、
という風に考えたのでありました。