えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

愛なき女

Una Mujer Sin Amor, 1951
ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品。やれ条件が悪かったの
20日間で撮ったの、監督は話題にしたがらなかったの、というような作品ではあるが、
しかしこれ、モーパッサンの『ピエールとジャン』が原作なのである。
スペイン語なのがちと残念なことではあった。
85分中前半30分は、お母さんの若い頃のエピソードになっていて、後半は
原作に沿っているが、しかし「忠実」ということでは必ずしもない。
というか大分変っている。
のであるが、ところがこれ、実にうまく演劇的というか映画的書き換えがされていて、
コンパクトにまとめつつ、かつ、人物それぞれの心理をくっきり際立たせていて、
「忠実」であるよかよっぽど成功していると思わせる稀有な例ではなかろうか。


ところでこれを観ていて脈絡なく気がついたことがあって、このお話は
ジャンの側からすれば「私生児」の物語だけれど、ピエールの側からすれば
現に違わず「その人」の子であったことの失望の物語である。それはつまり
フロイト流の「家族小説」の正反対ということではなかろうか。しかも
それはそうでしかない現実の受忍には必ずしもならず、自己を追放するという形での
逃避の物語に終わるのである。
モーパッサンがこの小説を書いた深いところの、あるいは無意識レベルでの根源は
つまりそういうところにあった、と考えると、これはある意味分かりやすい話であって、
ピエールがそのまま作者の投影であるというようなことになろう。
一方で改めて読み直すと、問題の核心は母子関係にあるのも明らかで、父親の影は
薄いと言わざるをえないので、話はそんなに単純でもない気もする。
お母さんは息子の存在が自分に対する非難となることに耐えられず、
息子はまたそのことの自覚から家族内に留まることを許容できない。
これが歪んでいるように見えるのは、息子の立つ位置が子供の位置というより
母という女性に対する男性の位置そのものであるように見えるからで
(だから彼は彼女の裏切りを許すことができないのではないのか)
こういうのフロイト的に読むとどうなってんすか。よう分からんけど
モーパッサン精神分析すると、普通の成熟過程を経てるとは思われん
というのが研究者アントニア・フォニーの言うところではなかったかと記憶する。
私としてもこの小説は実のとこ相当変だ、というのが初読以来の感想であって、
いつかちゃんと考えたいと思う。


で、映画の方はその辺をうまいこと処理していて、細かい心理を描きつつも、
へんに屈折したところにまで踏み込んでいないところが、上手いと思ったのでした。