えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

悪魔の発明

ジュール・ヴェルヌ、『悪魔の発明』、創元SF文庫、2005年(10版)
ヴェルヌをもうちょっと読みたいな、ということで買い置きの一冊。
原題はFace au drapeau, 1896.
とんでもない破壊兵器を発明したマッド・サイエンティストを誘拐した海賊は
秘かに彼に兵器を作らせる。「ロック式電光弾」つうのがどういうもんかは
よう分からんが、しかしまあ確かに予見的である。
一直線の筋立てと、孤島の秘密基地という設定とで、今でも映画にできそうな物語
(結末は変えんとしょうがあるまいが)であるが、本作の大半を占める一人称の語りは
「〜でないだろうか」という頻出する推測文がどうにもまだるっこしいのね。
「手記」という語りの「本当らしさ」の要請が、最後に至ってほとんど出来事と
同時進行的にならざるを得ない、という「不自然さ」を招来している点でも、
この語りは成功しているとは言い難い。
そういえば、内的独白の時代を経て、いつの間にやらなんかよう分からん一人称の語り
が小説の語りとして通用するに至るのは面白い事象である。
同時進行的モノローグで人生語る人間はいない以上、村上春樹的一人称体というのは
純然たる「お約束」でしかない。実際、19世紀の一人称は常に発話の場が
とりあえずであれ、明確に指示されないことはなかったはずだし、あまつさえその場合でさえ
フランスでいえば単純過去時制は揺るぎない、疑いようもない常識だった。
しかしよく考えると、一人称発話で単純過去で物語る人間は当時だっていたはずはないので、
これだって「お約束」以外の何物でもない。
そもそも古典演劇は「本当らしさ」を命題にしながら平気で韻文を朗唱していた以上、
「本当らしさ」という基準は、いつの世にもそうと認められる約束以上の域を出るものではない。
それはそうであるけれども、しかし近代文芸の歴史は多くの場合、「より本当」のものを求める
声による変革の歴史であるところ、広義の意味でのリアリズムが常に問題となる所以なりし、と。
話が逸れすぎ。
問題はやっぱ結末ですよね。攻めよせる列強の戦艦に向けてミサイルぶちこんでまえ、というところで
船に堂々と掲げられるのはフランス国旗。改悛する科学者。どんだけ恨んでいようとも最後に勝つのは愛国心
という実にもってまあ、「教育的」なお話であることであった。
郷土愛と愛国心はイコールではない。フランスという土地と共和国という国家はイコールではない。
そこにはすり替えというものが存在するし、そのすり替えを「利用」するのは誰かというのは
この200年変わることのない話であろう。
そういうのはちょっとストレートすぎるんですよねえ、ヴェルヌさん、
とまあ、当時の人かて思わんかったこともなかろうに、と思いました。