えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

暗夜行路

偽作の元ネタが分かったのはそれはそれとして、だから何なんだ、ということこそ
考えなければならなかろうが、だから何なんでしょうか。
「食後叢書」の3分の1からが偽作であったという事実は、ふつうに考えて
モーパッサンの受容において些細なことではなかったとは思うのだけども、
結局のとこ、それはどの程度どんな風なことになっていたのかを探るためには、
明治・大正時代に書かれたものをせっせと探さなければなるまい。
当然、それはそういうことであろうが、それは簡単ではないねえ。
とかとか。
ところで、これは言っておいてよいことだと思うのだけれど、
その当時にあって、田山花袋の騙されてなさは、けっこう見事なものがある。
彼は翻訳・翻案もいくつか残しているけれど、私の知る限りでは外していない。
もっとも、彼が至る所にまき散らしたモーパッサンにつての言及をちゃんと確かめた
わけでもないので、そのへんはまだなんとも言えないんだけど。
ところで、
大西忠雄が『全集』3巻の末尾に、作家が偽作に言及している例として挙げているのが、
芥川龍之介正宗白鳥と、志賀直哉。最後のを拾っておこうかと。

 横顔が母親とよく似ていた。母親もN老人の妹として彼が想像していたとは全く反対であった。顔の大きい、ずんぐりと背の低い、如何にも田舎田舎した人で、染めたらしい髪の余りに黒々しているのも、よくなかった。で、彼女が、それに似ていた事は、同じ場合を書いた Unfortunate likeness というモウパッサンの短篇小説を憶い起こさせたけれども、彼はその小説の主人公のようにその事には幻滅を感じなかった。それにしろ、彼女は彼が思っていたように美しい人ではなかった事は事実である。
志賀直哉、『暗夜行路』(第三 12)、岩波文庫、2007年改版3刷、95頁)

ま、そういうわけで、これすなわち、
「食後叢書」5巻、ダンスタン版で3巻所収の "An Unfortunate Likeness"であり、
これの元ネタは、
René Maizeroy, « Le Mauvais Mirage », in La Fête, Ollendorff, 1893, p. 93-100.
であった、と。はは。
これはぞっこん惚れん込んだ彼女が、母親と一緒に劇場に来ていた際、ふとした瞬間に
二人があまりに似ていることに気づいいた上に、母親の内に彼女の将来の姿を見てしまい、
百年の恋も褪めましたとさ、というお話であった。
だから何なんだろう。
モーパッサンには似た主題を扱ったものに『死の如く強し』があり、これは母親と娘との間で
思い悩む中年男の話なので、中身はだいぶ違うけれども、ある意味、
この「不幸な類似」、もとい「悪しき幻影」という作品は、
その主題にせよ、その落ちのつけ方にせよ、モーパッサンとそんなに遠いわけでもない。
文体はぜんぜん違う。でもそれだけでもって「気づく」のは恐らく無理な話であろう。


問題はそこにあって、時と場所を隔ててみた時に、モーパッサンとメズロワとリシュパンとの間では、
マゾッホはだいぶ違うんだけど)相違と類似と、いったいどっちのほうが顕著なのだろう。
メズロワはやたらに長い文章で、ひたすらブルジョアの退廃的恋愛ばかりを描き、
リシュパンは、俗語ばりばりで貧民やエキセントリックな人物を好んで取り上げた
モーパッサンに比べたら、どちらも相当に読みにくいのである、これが)。
その意味でいえば確かに、モーパッサン・メズロワ・リシュパン複合体の英訳「モーパッサン」は
オリジナルのモーパッサンとは似て非なる何物かである。
しかし一方で、
同じ時代に同じような環境に育ったこの三人の作家の間に、共通する点を挙げるのは難しい
ことではないし、それが、同じ言語で、同じ媒体に載せられた、同じジャンルの作品であれば、
なおのことである。その類似を前にしてみれば、
三者(ほんとは四者)複合体「モーパッサン」とオリジナル・モーパッサンの相違というのは、
明治・大正時代の日本の読者にとっては、むしろ小さなものでありえたのではなかろうか。
そんな気もするのでありました、とさ。


それはそうと『暗夜行路』。なんでここにおもむろに「モウパッサン」が出てくるのかは
よく分かんない。時任謙作は英語でモーパッサンを読むような人だった、てことでしょうか。
岩波文庫さん、今度改版する時はぜひ注をつけておくんなせえ。
と、投書でもしようかしらん。