えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『かもめ』とモーパッサン

チェーホフ、『かもめ・ワーニャ伯父さん』、神西清 訳、新潮文庫、2006年(48刷)
金曜日、チェーホフの話が出たので、勢いで四劇作再読。
チェーホフ劇の人物は、みんなして自分の自我に、あるいは自分の抱く幻想に
閉じ込められているので、ほとんど会話が成立していない、ように見える。
まるでコミュニケーション不全なのだけれど、皆が自分の思いをぶちまけずには
いられないので、饒舌ではあり、恋愛を中心に人間関係はずいぶん濃密であったりする分、
なおのこと各人の孤独が際立つ。とだけ言うとずいぶん暗いのだけれど、
しかし、なんというか、読んでいると、誰か特定の人物に共感する以上に、
(『ワーニャ伯父さん』を除いて、主人公はほとんど存在しないし)
この世界の「孤独さ」に、私の心は共振するのだ。けっこう強く。
この共振が、想像裡においては作者との間にこそ成立する(と勝手に考える)ので、
チェーホフは、私にとってかけがえのない作家の一人なのだろう。
ざっくばらんに言うと、うん、アントン君、君はよう分かっとる、つうことか。


それはともかく、『かもめ』にはモーパッサンが出てくる。
最初が、トレープレフの台詞。

あの人は劇場が大好きで、あっぱれ自分が、人類だの神聖な芸術だのに、奉仕しているつもりなんだ。ところが僕に言わせると、当世の劇場というやつは、型にはまった因襲にすぎない。こう幕があがると、晩がたの照明に照らされた三方壁の部屋のなかで、神聖な芸術の申し子みたいな名優たちが、人間の食ったり飲んだり、惚れたり歩いたり、背広を着たりする有様を、演じてみせる。ところで見物は、そんな俗悪な場面やセリフから、なんとかしてモラルをつかみ出そうとす血なまこだ。モラルと言っても、ちっぽけな、手っ取り早い、ご家庭にあって調法――といった代物ばかりさ。そいつが手を変え品を変えて、百ぺん千べん、いつ見ても種は一つことの繰り返しだ。そいつを見ると僕は、モーパッサンみたいに、ワッと逃げ出すんです。エッフェル塔の俗悪さがやりきれなくなって、命からがら逃げ出したモーパッサンみたいにね。
(15-16頁)

いわずと知れた『放浪生活』の冒頭。
次が、アルカージナがモーパッサンの本を読む場面(44頁)で、
「だからもちろん、社交界の婦人たちが小説家をちやほやして、これを身辺へ近づけるがごときは、その危険なること、粉屋が鼠を納屋に飼っておくのと一般である」以下略。フランス語はこんなの。

 Certes, il est aussi dangereux pour les gens du monde de choyer et d'attirer les romanciers, qu'il le serait pour un marchand de farine d'élever des rats dans son magasin.
(Maupassant, Sur l'eau, Gallimard, folio, 1993, p. 54.)

これが何かの種は作品中に明かされている。

ニーナ それ、なんですの?
アルカージナ モーパッサンの『水の上』よ。(二、三行ほど黙読する)ふん、あとはつまらない嘘っぱちだ。
(45-46頁)

あはは。
そうか、チェーホフも『水の上』を読んでいたのね。とまあ、それだけの話ではある。
ところで、この劇に出てくる作家トリゴーリンが、自分の作家生活について語るくだりが
あるのは皆様ご承知のとうり。

今、こうしてあなたとお喋りをして、興奮している。ところがその一方、書きかけの小説が向うで待っていることを、一瞬たりとも忘れずにいるんです。ほらあすこに、グランド・ピアノみたいな恰好の雲が見える。すると、こいつは一つ小説のどこかに使ってやらなくちゃ、と考える。グランド・ピアノのような雲がうかんでいた、とね。
(60頁)

トリゴーリンにチェーホフ自身の投影が見られるとは人の言う通りであるけれど、
先の『水の上』のアルカージナが読む箇所の直前には、実はモーパッサン流の「小説家」
なるものの姿が描かれているのである。

Mais le romancier présente des dangers qu'on ne rencontre pas chez le poète, il ronge, pille et exploite tout ce qu'il a sous les yeux. Avec lui on ne peut jamais être tranquille, jamais sûr qu'il ne vous couchera point, un jour, toute nue, entre les pages d'un livre.(Ibid., p. 53.)
だが小説家は、詩人は持たない危険を呈するのであり、彼は自分の目にするもの一切を齧り取り、奪い取り、利用する。彼と一緒に穏やかでいることはできないし、いつか、一冊の本の中にあなたを素っ裸で横にならせないとも限らないのである。

ここは有名な「第二の視覚」seconde vue (p. 91)について語るところではないので、
モーパッサンの語り口は諧謔的であり、その点でトリゴーリンとは文脈が違うけど、
「小説家」のありようとして、共通点のあることは認められると思う。
トリゴーリンはモーパッサンだった、と言うつもりはさらさらないのだけれど、
この作家のモデルの一人にモーパッサンもあったことを、先の『水の上』朗読の場面は
暗に指し示しているのではないか、という風に考えることは許されるかもしれない。
あるいは、自分と同じような苦悩を抱えていた、10歳年上の先輩作家に対する
チェーホフによるささやかなオマージュを、私は読み取ってみたい、
という風に思ったのでした。