えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ギャラントリー考

祝日ばんざい。


アルセーヌ・リュパンの女性に対する振る舞いが、どうにも古風に思えるのは、
要するに彼は徹頭徹尾ギャランな男である、ということである。
ギャラントリーは日本語にない語の一つで、いかにも訳しにくい。
トレゾールをひくとこの単語は17世紀から流通していたらしく、
いかにもアンシャン・レジームの貴族的風習というもののように思えるけど、
トレゾールの引く用例自体はほとんど19世紀のものでもあり、
このあたりの事情はいささか興味深い。19世紀はブルジョアの時代だが、
ブルジョアが貴族に憧憬を抱き続けた時代でもある。上流社会にあって、
ギャランな態度を示すことは、色男の条件であり続けたのか、さてどうか。
それはともかくとしても、
20世紀も20年代になって、なおギャラントリーに徹する男、アルセーヌ・リュパン
正確には分からないけど、それはたぶんある意味で「昔気質」であったわけで、
「粋」であるとはあるいはそういうものであるのかもしれない。
ブルジョアの時代に、優雅で洗練された趣味を持ち続けるには、
それなりの苦労もあるというものだろうか。
も一つ、恐らく確かなことは、ルブランがそれを「フランス的」なものと捉えていたことだろう。
「フランス人」の理想像でありつづけること、それもまたリュパンに託された使命のようなものだ。


一方でモーパッサンはといえば、彼は時評文の中で18世紀のよき風習としての
エスプリやギャラントリーをしきりに哀惜してみせる。それはこのブルジョアの世紀に
既に失われて久しい、というのが彼の見立てであった。
従って、ことの必然からして、彼は作品の中にギャランな男を描くことはない。
ベラミははたしてギャランといえるかといえば、それはちと厳しかろう。
名を変え、身分を変えて、詐欺まがいのことも辞さずに成り上がる男デュロワ君は、
あるいはリュパン君のモデルの一つでもあったろうか、と言うてみたくもなるのでは
あるが、そういうのを人は贔屓目というのでありましょう。