えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

リシャールの続き

本質的構造にせよ、原初的テーマにせよ、探索されるべきは
「意識」のレベルにおいてである。それは現代の関心と通じるものであるとして、
リシャールが挙げる名は、バシュラールメルロー=ポンティ、サルトル
ジャン・ヴァール、ガブリエル・マルセル(時代が見える)。
「下部においての、輝き」「言説によって言われえぬもの」を求めたマラルメの詩においては、
このような探究は正当なものである。マラルメを理解すること、それは
詩の背後に、姿を隠しているある言説を明示的に提示してみせることではなく、
詩の難解さの存在理由、その計画を明るみにさらすことなのである。
だからこそ「翻訳」的字義解釈ではなく、「構造」の探究が求められる。
つまりはマラルメの想像力の「語彙」ではなく「統辞法」。

L'hermetisime, dont l'apparente clôture constitue en réalité une expression profonde, ne peut authentiquement s'ouvrir qu'en une profondeur seconde, où son ombre se résolve en clarté (p. 18).
難解さとは、その見た目は閉じられているが実際には深い表現を構成しており、それが真に開かれるのは第二の深さにおいてであり、そこでは暗さが光へと変化するのである。

表面の奥に流れる、統一化する意味作用に触れること。その「原初の流れ」が夢想を伝達する。
そもそも、マラルメの詩句は人が思う以上に「身体的」なものではないのか?
そこにおいては感覚こそがその詩的役割を担っているのである。
マラルメは言う。自分は「我々の感性を用いて、一つの論理を構成する諸モチーフ」を探究しているのだと。
従って、彼の作品の内からこの「モチーフ」を抽出することが我々の目的となるだろう。
それはすなわち彼が偏愛する物質や形体、夢想が常に回帰する運動形態、彼の心象風景を構成する「姿勢」であり、
一連のマラルメ的想像力の博物館とも呼ぶべきものであり、
フェティッシュな事物、光と音、強迫的リズムと根源的シェーマ、具体的な性質、表現形態
についての現象学であろう。
というのが、かなり詩的ないし難解な表現続出のリシャールの論述についての個人的まとめ。
夜は「へそ」にて、豚キムチと秋刀魚でビール。