えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

リシャール4

今日はなるべく簡単に。


テーマ研究に対してなされうる反論に対するあらかじめの擁護の続き。
まず、それぞれのテーマは歴史的なものであり、マラルメがそれらを発明したわけでは
ないのではないか、という問いに対して、リシャールは答える。
確かに、テーマは作家個人を越えて歴史的に研究することが可能であるが、
我々が試みたのは、それをマラルメがどのように捉え直したか、
マラルメ自身にとって諸テーマがどのような意味作用を新たにもったか、
それが彼のうちにおいてもつ特別な価値は何であったかを明らかにすること
それだけであったのだ。個別のテーマは新しいものではないが、
それがお互いにどのように結び付くかを見る時に、マラルメの独自性を突き止める
ことができるだろう。想像の内に生まれる関係性が、創意の独自性を特徴づけるのである。
(個別例から出発することで、想像力の歴史という全体へ到達することも可能であろう、という注釈つき。)
次にありうる反論には、深層の探究によって、「芸術」としての作品そのものが破壊されて
しまうのではないか、というものがある(これは主に英米から提起されうる、らしい)。
これに対してリシャールは答える。見た目の秩序は、真の秩序ではないのであり、
真実を明らかにすることで、表面を混乱させることもあるのだと。
マラルメ自身、語根を明らかにするためには、言語を「解剖」しなければならない
と言っていたように、文章の通常の流れに沿うのではなく、そこから特定の要素を
掴み出し、(空間的、統一的、構築的な)第二の理解の内に結び付けること、
すなわち構造を直観的に把握すること。そのことは、詩の見た目の秩序を破壊しはせず、
これをむしろ完成させることに寄与するであろう。詩作品のそれぞれの形式は、
マラルメの作品という持続的意味作用の内に一端浸すことによってこそ、
その形式を改めて理解し、正当なものであるとみなすことができるようになる。
たとえば韻の崇拝は、二元論的観念と結びつき、詩句に対する信仰は、原初的なものを
人為的に再創造し、言語の内に楽園状態にある知の条件を再導入したいという深い欲求に根付いているように。


やや先走る。
夜は二度目の韓国料理。生マッコリに撃沈される。