えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

パッチギ!

2004年。
とりあえず説話の構造だけ取りだすと、これはすごく明快で古典的でさえあるものの、
複数のエピソードを重ねてクライマックスにもっていく手際がお見事な
よく出来た娯楽作品である。関西弁ながら実にナチュラルな演技も大したものかと。
そこから先に話を進めようとするとややこしくなるのだけれど、
異文化間コミュニケーションの描かれ方という点だけにとりあえず焦点を絞りたい。
そうするとこれは当然、ある文化圏に属する一青年が、別の文化圏に属する少女、
および彼女の属する共同体とコミュニケーションをはかる物語である。
きっかけは歌であり、やがて彼は言葉を学び、それらを通して、相互の交流が生まれていく。
飲食をともにすることでその関係はさらに強められるが、そこにある事件が起こり、
そこにおいて、二つの共同体の間に壁が存在することを、青年は身をもって知ることになる。
これはそういうお話である。問題の場面がお葬式であるというのも、それがまさしく
共同体のアイデンティティー確認の場でもあるということをよく語っている。
そこで一人のおじいさんが、青年に向かって言う言葉は「お前は何も知らない」というものだ。
(私はその話の具体的中身を問題にしているわけではまったくないことをお断りしておく。)
それは、恐らくは17歳の青年が生まれる前の事柄ではあるのだから、青年の側に返す言葉の
あるはずもなく、当の老人(や周囲の者達も)それが他ならぬ彼(だけ)に向けられねばならない
言葉ではないことを、分かってはいるのである。だけれども、老人はそれを口にせずにはおれず、
青年は黙って聞くしかない。「お前は我々と同じ体験を共有していない」
それが老人の告げていることであり、それは揺るがしようのない事実だから。
つまり、言うまでもないことながら、二つの共同体の間に存在する壁は歴史的なものである
ということを、青年はここで(恐らく)初めて理解することになる。
それでも、個人の思いをもってしても越えられないものがそこにあるということは、
そこにいる者皆が理解しているから、そこで感じられる痛みは、お互いに共有されるものだ。
その越えられない壁を、「イムジン河」の熱唱で越えられたかに見せるところは、
これまさしく映画的といえるものであって、それはそれでよろしい(と私は思う)。
もしも現実的な次元において考えることが許されるとするならば、必要なものとは
それもまた時間であるだろう。同じ体験を共有することが、壁を超える手立てなのだと思いたい。


それはそうと、この映画では朝鮮語に字幕がついていて、当然のことのように思うけれども、
ロスト・イン・トランスレーション』の後では、当然ではないということに思い至る。
もし字幕がなかったら、いったいどんな印象を受けることになっただろう。
そう考える時、「翻訳によって失われるもの」を云々するより前に、
「翻訳によっても伝わりうるもの」の可能性もまた、捨てたものではないではないか、
と、私としては信じたい。