えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ドゥ・ザ・ライト・シング

Do the right thing, 1989
簡単に言うと、「黒人」を美化して描かないことで単純なプロバガンダになってしまっていない
ところに、スパイク・リーの監督としての才能が感じられる映画。
結果的に当然ながら、見終わっても全然さっぱりしません。
「問題」は大きく見れば当然歴史的・社会的なものであるのだけれど、それが個人の
レベルにおいてどのように表れてくるかと言えば、それはたとえばスパイク・リー自身の
演じるムーキーのように、猛暑の中しんどい仕事にこき使われて、子どももいて身動きとれず、
それでいて身内の者(妹や内縁の妻)からはろくでなしと文句を言われ、不甲斐ないことは
自分でもよく分かっていながらどうすることもできない状況にあってみれば、
閉塞感とフラストレーションだけが募っていく、ということになるわけである。
イタリア系移民の店に黒人の写真を掲げろと文句を言う別の青年について、
「問題は写真にあったのか? 彼が自分の店を持ってそこに黒人の写真を掲げることが
できていればよかったのだ」と監督のコメントがついていたけれども、
そこでも、人種差別というよりむしろ個人的な憤懣のはけ口として
「写真」があったに過ぎないから、彼の言い分は他の黒人たちにも相手にされない。
そうした、一見したところ日常の些細な諍いを描いているようでありながら、
各人それぞれの抱く不満が、ひとたび弾けるや大きな事件を引き起こすことになる
そういう展開には説得力がある。しかしながらムーキーが hate と叫びながら
暴動の口火を切る時、標的にされるのがイタリア系移民の店であるということは、
それが決して「正しいこと」として正当化されるようなものでないことを、
よく示していると思う。「憎しみ」の向けどころそのものが失われているのだ。
問題があって不満があるのは確かであるけれど、ここではもはや正すべき正義が
見失われてしまっているのであって、だからこそ事態はなおさら複雑で解決の糸口が見えない。
黒人はイタリア系を、ヒスパニックが韓国系を、韓国系はユダヤ人をののしって、
そこだけで閉じられてしまっているかの移民社会においては、いわゆるWASPの存在そのものが
視界に入ってこないかのようにさえ見える。
(こう書いてしまうとWASPが悪いみたいになってしまうが、もちろん問題はそんなに簡単なものではないはずで。)
そしてこれが現実だ、と監督は言うのであろう。
フランス映画の『憎しみ』と構図はさして変わらない。どちらも問題の根の深さを、
個人のレベルにおいてしっかりと描き出しているから、単純な二分法に陥らずに
社会のありようを物語の中に取り込むことが出来ている。というように思った。
うろ覚えでなんですが、監督のもう一つのコメントに、
「映画で解決できない問題を、映画の中で解決させるのは越権行為だ」というのがあって、
リアリズムというものの最も力強いあり方がここにある、ということを
私としてはしみじみと思う。