えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

旅行の準備

Préparatifs de voyage, 1880
モーパッサンはどうなったんかいな、とさすがの私も自分でも思うので、
初心に帰るべく努めます。
5月31日『ゴーロワ』掲載。
Les Dimanches d'un bourgeois de Paris 『パリのあるブルジョアの日曜日』
と題された連作短編の第一話にして、
モーパッサンの実質的『ゴーロワ』デビュー作。
(これ以前に78年に詩一篇と、『メダンの夕べ』宣伝記事がある。)
つまり、ジャーナリスト・モーパッサンの誕生の瞬間であるといってもいい。
今日ではガリカで『ゴーロワ』も見れてしまうことはまことに素晴らしく
(ところでpdfの質が当初よりよくなったと思うんだけどどうなんだろうか。だいぶ読めます。)
これを見ると、このモーパッサンの「記事」は、新聞の冒頭に掲げられていることが分かる。
いわゆる連載小説フイユトン(これは毎日連載)とは違うということがひとつ。
当時の新聞は2頁以下(おおむね4頁まで)は構成がかなり決まっているということもあり、
実はその日の「売り」となるこの冒頭スペースが一番融通が利いたのではあるけれど、
基本的にはクロニックと呼ばれる時評文がおかれることが多いのであり、
そこに掲載されている、という事実を、前々から私は大切だと思っているのである。
重要なのは、モーパッサンははじめからそういう場所に掲載されるものだということを
十分に意識していたということにある。
ちなみに『ゴーロワ』は1869年創刊、1929年に『フィガロ』に吸収されるまで、パリの大新聞の一つだった。
「脂肪の塊」で成功を収めたモーパッサン(およびユイスマンス)に目をつけたのは
当時の支配人アルチュール・メイエールで、この人はユダヤ人にして王党派にして
後にアンチ・ドレフュス派、という、ベル・エポックの大物の一人としても興味深いが、
それはともかく、モーパッサンは最初から新聞という媒体を強く意識することを要求されていた。
だが、彼はいきなり時評文を書きだすわけではなく、むしろ小説をこそ書きたかったに違いない。
時事性とフィクションとの均衡を手探りする中で書きすすめられたのが、この
『パリのあるブルジョアの日曜日』であるのだけれど、連載は10回目を迎えたところで
ほとんど連載中止同然の形で終わりを迎えることになる。
長らく詩人としての苦闘があった後、今度はジャーナリスト・モーパッサンの試行錯誤が
しばらく続く、という話だけれど、ぼちぼちいこう。

 パチソー氏はパリの生まれで、他の多くの者と同じようにアンリ4世校でのひどい教育を終えた後、おばの一人のこねでとある役所に入ったのである。そのおばは煙草屋を営んでいたのだが、そこに局長が通っていたのだった。
(1巻、122頁)

ムッシュー・パチソーは52歳、この1月にようやく第一書記に昇進したところ。
総題とあわせて冒頭近くに3度繰り返される「他の多くの者と同じように」の文からも、
パチソー君をしてブルジョアの典型となさしめよう、という筆者の意図は明らかなように
思える。もちろんのごとく、それはカリカチュアであり、風刺の対象となるだろう。
(当時の役人が「ブルジョア」なのかどうなのか実は曖昧ではあるが、とりあえず筆者はそう言っている)
しかしながら言うまでもなく、「パリのブルジョア」とは当のゴーロワの読者そのものに他ならない。
登場人物を読者と近付けることは、ひとつには読者の興味をひく手段ではあるだろうが、
それが同時に風刺の対象でもあるというのは、考えるとなかなかややこしい話ではある。

 彼の昇進の話は多くの勤め人にとって有用に違いないが、それはちょうど、彼の散策の物語が恐らくは多くのパリ人の役に立つだろうのと同じことで、彼らはそれを自分たちの遠出の道順にもするだろうし、たとえば、彼に起こった不運な出来事を自分たちは避けることができるであろう。
(1巻122頁)

モーパッサンの狙いは、まちがいなく、パチソー氏なる人物が実在するかのように語ることに他ならない。
記事の置かれる位置や、さらには「彼の言うところでは」という間接話法の導入、
語られる物語が1880年5月30日(日曜日)、つまり「昨日」であること、
とある役所に勤めるとある一「ブルジョア」パチソーなる人物は、その匿名性と無個性さにおいて、
大衆の外に出るものではなく、要するには1880年5月31日に新聞を開いた読者にとっては、
これが事実を基にしたルポルタージュであるかのように読めても、なんら不思議はなかっただろう。
いってみれば作者の文体は「三面記事」のそれに限りなく接近している。
クロニックというジャンルの規制にどこまでも忠実に、その中身を純然たるフィクションに置き換えること。
それがモーパッサンの試みたことだ。なんのためにかといえば、
それは語られる物語を文字通りの意味において信じさせるためである。
モーパッサンがフィクションの力を信じていなかったかといえば、事実は反対であるが、
それとはまったく別のことを、彼はここでやろうとしているはずだ。
その試みがどこまで成功したか。それは今となっては判定しがたいが、
いずれにせよ、後にモーパッサンが「本当らしさ」を重要な判断基準に置くことになる
芽はここにあるといっていいし、小説家モーパッサン独自の美学は、
ここを出発点に新たに形成されてゆくことになるはずだ。
その観点から『パリのあるブルジョアの日曜日』を読みなおすこと。
それをこれからしばらくの課題としたい。続きますように。