ただしいフツブンの人になるために、まずは掃除から。
その後あれこれ、つい翻訳も少ししてしまう。
翻訳と似顔絵には共通点があって、どちらもオリジナルが存在する。
しかし出来上がったものはオリジナルとは似て非なるものであり、
同じであると同時に違うものである、というのが両者の本質を成している。
私がこの両方が好きなのは、なんかそういうことと関係があるのだろうか。
さて、竜之介さん内容豊富なコメントをありがとうございます。
言いたいことが色々あって困るなあ。
私が好きな画家はゴッホとピカソとシャガールです。誰も聞いてませんが。
総じて、描くことが生きることと直結してるなあ、と感じさせてくれる画家の作品は
見てると元気が出ます。
それにしても若くしていい趣味をなさってますね。すごいなあ。
モーパッサンと動物について。
「マドモワゼル・ココット」と「ロバ」と「ピエロ」と「ココ」と
あと「ネコについて」あたりは、とりあえず要注意かと思われます。
ま、そんなに数はない。
ここに描かれる動物は「弱き者」の象徴といってよく、
人間の一方的なわがままの犠牲になり、反抗する術とてもたない動物たちを
これまたモーパッサンは冷淡とも呼べる筆致て淡々と描くのですが、
そのことによって人間こそが野蛮でも残酷でもありうることを、強く印象づける、と。
「ココ」を最初に読んだ時にはけっこう驚いたものでした。
さてオルラ。
夢にオルラが出てきたら、それは怖いなあ。
無事をお祈りします。
「オルラ」は最初1886年に短編として新聞に掲載された後、
(モーパッサン 『オルラ』 これです。ただの宣伝ですが。)
加筆された長いヴァージョンが、翌年短編集『オルラ』巻頭に掲載されました。
従って二種類ありますが、短い方が「精神病院の患者の一人語り」という形式ながら、
オルラが未知の生命体であることはけっこうはっきりしているのに対し、
日記体に書き直された後者は、語り手の言葉=主観そのものが問題に付されることで、
オルラの実在は一層曖昧かつよく分からんものになり、狂気というテーマも濃厚になった。
前者はSFの先駆けと呼べる一方、「幻想小説」としては後者の方が圧倒的に面白いでしょう。
オルラが何であるかは、読者の判断に任せるしかないとして、
名前について二点の注釈。
1 オルラは「種」の名前である。
le Horla には常に定冠詞(the Horlaだな)がついてるので、これは「犬」とか「猫」とかと
同じレベルで「オルラ」という新種が発見された、ということ。
「ル・オルラ」と訳す人もいるが、私はこれはあんまり意味がないかと思う。
2 オルラの名前の由来
諸説あり。一番簡単で明快なのはhors「〜の外に」とlà「そこ」の合成語という考え方。
hors-là で、そこにあるかと思えばそこにないものを指し示していると考える。
là は口語で「ここ」も指しうることを鑑みれば、これを「内」と「外」の対比として
捉えることも無理ではなかろう。
我々の「外」にある、と同時に、それは我々の「内」にあるのかもしれない。
短編では語り手がオルラと命名するのに対し、
中編ではオルラが自ら名乗る、というのも興味深い相違。
新聞雑誌に連載するモーパッサンは、おっしゃるとおり同じネタを
二度(時には三度)取り上げるということをけっこうやっています。
書いてみて「これはまだ膨らむな」という感触のあるものを、
もう少し長い形で書き直したというのの代表が、
「息子」→「パラン氏」
「イヴリーヌ・サモリス」→「イヴェット」
それに「オルラ」の2ヴァージョン、かな。
『パリ人の日曜日』は最初の新聞連載小説で、
あんまりうまくいかなかったのか10回で打ち切り。
そのまま単行本になることもなかったので、そのうち3つくらい
別の短編に書き直しております。
最初の長編『女の一生』の場合は、
長編書くのと同時進行で、エピソードを幾つか短編に「切り分け」している一方、
『ベラミ』以降は、短編の材を長編に「取り込む」ということもする。
たくさん書いた時評文は、フィクショナルな旅行記『水の上』他に、これも「吸収」される。
というわけで、職業作家の面目躍如というべき、この「書き換え」作業を
丹念に追いかけるのはなかなか楽しい作業のはず(でもあんまりされてない)。
はい、またしてもご返事長々と書いてしまいました。
ではでは今後ともどうぞよろしく。よい読書を。