えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

みたびのトゥルゲーネフ

トゥルゲーネフ;Tourgueniev

さくさくと翻訳が進んだので、これは描かずんばなるまいて。
と自分を納得させてしまう。ぜんぜん打ち止まってないのお。
それはそうと、そういうわけで私の翻訳のページは似顔絵とセットになっているのが
大原則なのである。どちらが主か分かったものではない。なことはないか。
モーパッサン 『幻想的なもの』
ついに進化した(ver.2.0と呼びたい。もう古いのか?)似顔絵の正式採用。
ただし中間色なしの白黒使用に留めました。
なんというか、線がなめらかで艶やかなことよ。
モーパッサン 『イヴァン・トゥルゲーネフ』
ちなみにこちらが4年前のごく初期の一品。実に素朴。
モーパッサン 『「ニヒリズム」の語の発明者』
そしてこちらが、昨年夏の時点。
マウスで線を引いて、ドット単位で修正するという、今となっては信じられないくらい地味な
作業の、これが頂点だったのか。
あらゆる道具がそうであるように、一度手にしてしまうと、もうそれ無しでは済ませなくなり、
かくして道具の進歩は、人間的退化と紙一重だったりするのである。
もはや原稿用紙に手書きするなんてのがとても考えられないように。


おお、絵の話ばっかりでどうしよう。
モーパッサンの評論「幻想的なもの」は、個人的に大変思い入れ深いものであって、
私が学部の最初の年の演習で読んだのが、実はこれだった。
当時はモーパッサンが誰かもよく分かっておらず、
なんやしょうもないオチやなこれ、としらけたものであった。
しかし、その後、卒論、修論と、モーパッサンの「幻想小説」に取り組むにあたって、
この一文こそは、アルファにしてオメガともいうべき重要なものとなった。
振り返ってみれば、あの時の演習こそが、私にとっては重大な機縁だったのかもしれない。


余談はさておき。
幻想小説」とはいかなるものか、を語った前半部は、そういうわけで
モーパッサンのみならず、19世紀幻想小説を考える上でも貴重な示唆を与える
その筋では有名な一文。
トドロフの『幻想文学論序説』ともすごく近く見えるのだが、しかしああた
それが躓きの石というもので、あの本には実に苦労させられた。
いやさ昔話はどうでもよく、
合理主義と実証主義ばりばりの19世紀をとおして「幻想小説」が書き継がれたのは
いったい、何故なのか。というのは、大変に面白い主題でありましょう。
なんやまとまってませんが、ご一読頂ければ幸甚です。


さて、遅くなりましたが、竜之介さんこれまたどうもどうも。
もちろん、ユトリロもモディリアニも、一流の画家は誰でも
描くことこそが真に生きることの証だったろうと思います。
私はすこぶる単純な人間なので、パッションがありありと感じ取れる画家が
とりわけ好みなのではあります。
ユトリロもたいがいながら、ゴッホの生涯は実に悲しいですね。
ほんとうに、なんで売れへんかったのか、今となってはまるで謎。
逐一ご返事さしあげませんが、なんていうか
竜之介さんの情熱に圧倒されるようです。
ぜひこれからもどんどん新しいものを見つけていってほしいと思います。


「オルラ」について真剣に考えると、いや本当に頭がどうかなりそうになりますので
ほどほどにされるのがよいかと思われますが、
最近私は「オルラ=電磁波」説というのを思いつきました。
今の世の中、それこそ目には見えないいろんなものが飛びかっていて、
人体への影響があるやないや言われるわけだけれども、
だからといって、日常そんなことを意識していては、とても生きていけない。
だから普通の人は、そういうことをあんまり考えないことにして、今日も携帯電話を使う。
しかしもし、そのことを真剣に考えつめたら、どうなるのだろう。
「オルラ」という作品を、現代人のアレゴリーとして読むことも、
そんなに突拍子もないことでもないだろう、と思うのですね。
それは、この作品もまた、人間のありようについての根源的な問いを突き詰めた
ところで生まれてきた作品だからであって、優れた作品が時代を超えて
力を持つのは、それあってのことでしょう。
優れた幻想小説とは、幻想の力を借りることによってこそ語りうる形において、
現実の人間のありようについての問いを投げかける作品のはずです。
とまあ、私の側としては、そんな風に考えております。


というあたりでご返事にかえまして。ではではまたまた。
どうぞ日々よい読書を。