えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

それは幾らなのか

文学と金の話。
1878年時点では、モーパッサンは日刊紙「ゴーロワ」に記事を掲載することについて
ためらいを示していて、その理由として、
定期的に時評文を書けば下らないものができるし、
二時間で書いたものに署名なんかしたくない、という文学的矜持の問題と、
特定の新聞に拘束されるのは厭だという、思想的自由の確保を挙げている。
2年後の1880年5月には、その当のゴーロワと契約することによって、
晴れてお役所とおさらばし、職業作家としての道を歩み始めることになるのは、
一体どういうことなんですか。というお話ですが、そこにはつまり
ジャーナリズムと文学との関わりをどう捉えるか、という19世紀的問題が
潜在しているのである。
ということで、Sainte-Beuve littérature industrielle で検索をかけると、
1839年に『両世界評論』に掲載されたサント=ブーヴの有名な評論「産業文学」が、
文字通り瞬く間もなく目の前に現れてくれるから、いや本当にすごい世の中だ。
七月王政下、金儲け目当ての輩が増えて文学は堕落した、とサント=ブーヴさんは
怒っているのであるが、それはそうと彼の文章はすごく読みやすいところが偉い。
そのサント=ブーヴに対する反論の意も込めて、
作家が自分のペンで食いぶちを稼いで何が悪いことがあるものか。
と敢然と言い放ったのが、ゾラの1880年の評論「文学における金」であり、
18世紀までは作家は王侯貴族の庇護によって食いつないでいたけれど、
19世紀になって新しい読者大衆が出現し、作家は自分のペン一本で
自立することができるようになったのであり、
こんな素晴らしいことがあるものか、と血気盛んな文章である。


で、GF Flammarion の『実験小説論』を読んでいたら、そこの注にいわく、
当時の1フランは25倍して考えるのが通例であるぞなもし。
すなわち当時の千フランは今の3,800ユーロである。
ということが書かれておる。
1ユーロは6.55957フランでしたが、こういう計算になるんでしょうか
よく分かんないんですが。
とまれ、なるほど。
すると1880年の時点で文部省の役人ギ・ド・モーパッサンの年収は、
およそ2,500から3,000フランの間だったと考えてよかろうから、
9,500から11,400ユーロということになる。
今1ユーロ130円くらいとして、これを掛けるとどうなるか。
(なんか前にもこんな計算をしたことがあるような気もするけど、まあええか。)


うーむ。
こいつはやっぱり薄給というものじゃないかねギイ君。こりゃあ不満もありますわあね。
と、ついついモーパッサンに同情(というか共感か)してしまう。
これだと、1フラン1,000円式の計算の方が、まだしも生活実感にあっているような気もしてくるが、
しかし実際のところは、当時のフランス社会はもろもろの物価が相対的に安かったようでもあって、
結局はまあ、こういう換算は分かったような分からんようなところに
落ち着くしかないのではあろう。


てなことを考えていたら本題が何だったか分からなくなるのであるが、
今日はまあそういう日であった。
ちなみにモーパッサンは最盛期には年間に6万フランは稼いだというので、
これに3.8かけて、さらに130かけると・・・。
てしかしまあ、下世話な話にしかなりませんか。うむうむ。


ところで件のゾラの評論には、お金に関する貴重な証言がいろいろあって、
当時、小説はそこそこ売れたとして3千から4千部であり、
著者の取り分が一冊につき50サンチームだとすれば、総計でおよそ2千フランになる。
もっとも、普通は35から40サンチームが相場であるが。
で、もしもその本書くのに一年かかったとすれば、
今日、年間2千フランではほとんど生活できないから、これは質素なもんなのである。
で、劇場の場合。
そこそこ成功した場合、公演は100回を数える。
一日の平均売上は4千フランであり、40万フランが劇場に入ることになる。
もし作者の取り分が1割であれば、すなわち収入は4万フランになるのだ。
しかるに、これだけを小説で稼ごうと思ったら、1冊50サンチームでも、
8万部売らなければ駄目であり、そんなに売れた作品なんて、
過去50年を見ても4,5作しかあるまい、等々と書かれている。
なるほど、当時演劇が作家にとっていかに金のなる木であったかが、非常によく分かる。
ついでに、そこにさらに注があって、『ナナ』は一年で81,000部売れたそうなので、
ゾラは大した売れっ子作家だったのだ。