えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ご返事の続き(2)

日曜に新潟、本日帰宅。
夜に仕事するも、おもいきし行き詰ったので、気分転換。


さて竜之介さん見てますか。
ようやくモーパッサンと神について思うところを。
19世紀フランスは少なくとも表面的には世俗化の道を進み、
合理主義と実証主義がまかりとおった時代であって、
時代の子として、モーパッサンもそういう風潮の中に育ったというのはまず前提。
ギイ君は若いころ神学校に通ってましたが、あまりに閉塞的なのが厭になり、
悪さをして学校を追い出されたという説(真偽は曖昧)もあり、とにかく以後、
断固として教会と坊主が嫌いになりました。(坊様は作品のあちこちでからかわれる)
彼がカトリックの教義をてんで認めていなかったのは、確かなことでしょう。
初期のエラクリウスには既にキリスト教の教義はばかげているという話が
出てきて、天国と地獄はもとより、彼は霊魂の不滅という考えも
認めていなかったように思われる。「ミス・ハリエット」の末尾に見られるように、
なんつうかごりごりの唯物論、というのが基本路線といってよろしかろう。
もっとも、そこから「死んだら一切が無」ということに対する絶望と恐怖が生まれる、
ということも考えられるわけで(「墓」参照)、
信仰をもたないということが、本当に人間を自由にしたのか、という問いかけを
私としてはモーパッサンの作品の中に読み取れるのではと思っています。
問題はまだあって、
仮にキリスト教を認めないとしても、それは直ちに無神論を意味しないので、
そもそもこの世界はどのようにして生まれ、そこにおいて
なぜ我々は生まれては苦しんで死んでいかねばならないのか、
という問いを抱え続ける限り、人間的問題は何一つ解決してない、ともいえるわけでしょう。
モーパッサンはこの世に多くの悲惨が存在することから目を逸らさなかったし、
彼自身が病を抱え、死の存在を身近に感じてもいた。
なぜに世界はこんなことになっているのか。
一体誰が世界をこのようなものにしたというのか。
ヴォルテールの述べたごとく、もし神が存在しないなら、それを生み出さねばならない
というのはモーパッサンにぴったり当てはまる。何のためか。
目的はただ一つ。憎むため。
憎んで罵倒するために、モーパッサンは「創造主」の存在を必要とした。
「モワロン」から未刊の遺作「アンジェリュス」まで、晩年の彼の作品には、
この神への呪詛が繰り返される。
この際に、モーパッサンが「神」の存在を「信じて」いたかどうか、というのは
結局のところ明確な答えの出るものではないように思われるけれど、
なんにしても、この「神様」は救済とか慰めをもたらしてくれるようなものでは
全然ないのは確かで、この話はどうしても暗いところに行きつくのではあります。
トルストイは、モーパッサンは信仰へ目覚める道半ばにして亡くなってもうた
と残念がったけれど、それは彼自身の願望の表明以上のものではないとは思う。
けれどモーパッサンが、健康のままもっと長生きしたら、どうなっていたかは
誰にも分からない。
いずれにしても、喜びも悲しみもぜんぶひっくるめて「生きてあること」に
モーパッサンは執着し、それが何であるかを執拗に問い続けた。
彼のたどった道筋は、我々に答えを与えてくれるものではないけれど、
生きてあることの喜びと悲しみを、彼と共有することはできる。
私は自分がこの10年生きてきた道のりの中で、そのことを決して小さくはない
支えにしてきたようです、と、私事を恥ずかしながら申し上げて、
ひとまずご返事としたいと思います。