えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ヴェルレーヌのお墓

土曜日マラルメ
1897年元旦、『ルヴュ・ブランシュ』掲載。
これはほんまにむずかしい。てか分からへん。


  命日――1897年1月


黒き岩、北風に転がされて憤り
敬虔なる手の下にても止まりはしない
人間の苦難との類似を手探りし
その不吉なる鋳型を祝福するかのような。


ここではほぼいつも森鳩が啼くが
その非物質的な哀悼は、多くの
雲の襞によって、将来の成熟した星を圧迫する
その瞬きは群衆を銀色に照らすことになろう。


誰が探すのか、我らが放浪者の今しがたの外への
孤独な跳躍の跡を辿って――
ヴェルレーヌを? 彼は草に隠れている、ヴェルレーヌ


ただ素直に同意し、不意を襲わんとして
唇はそこで飲むことも、己が吐息を涸らすこともない
死と中傷されし、わずかに深き小川を。
Mallarmé, OEuvres complètes, t. I, Gallimard, Bib. de la Pléiade, 1998, p.39.

tantôt は近い過去も近い未来も指しうる、というのが分からない。
菅野昭正訳の「近い未来」をあえて避けて、過去の方にとったのに
さしたる根拠のあるわけでもなく。
作者が死んで、作品は万人の者となり、彼らを照らすことになる。
そこに、恐らくは芸術家の真の栄光がある。
というのはまあ、普通の人の考えることではある。
しかしヴェルレーヌその人の(はたから見れば救いのない)生涯を
あれこれ言い募り、これぞ人間のみじめさよ、と新聞・雑誌が騒ぎ立てている
今現在、ヴェルレーヌは、まだ本当に「死んだ」(=栄光に辿りついた)
と言えないのであって、彼はただ謙虚に、真の意味での「死」の時を
待っているのである。
というような、追悼のオマージュ?を書いて、マラルメさんは一体何が
したかったのであろうか。
あんたらは何も分かってへん、ということですか、やっぱし。
その通りやもしれぬ。


ところで、マラルメが生前に残した韻文詩はあと一篇となるに至り、
おもむろに独断で、後期マラルメにとっての韻文定型詩とは何であったかを考える。
マラルメさんにとって、韻文定型詩(ソネ)はまずもって公的なものであった。
韻文詩を書くということは、だから詩人の「公務」というべきものであって、
だから彼は、頼まれれば断わらずに仕事を引き受けたのである。
マラルメの好きな宗教のたとえを借りるなら、それは
司祭さんが日々司るミサみたいなもんであったかもしれない。
韻文詩を書くことは、ひとつの儀式みたいなもんだったのだ。
その点で、宗教の役割が冠婚葬祭に限定されていくような世の中にあって、
詩人のお勤めも、もっぱら弔辞とか、あるいは祝辞とか、そういうのに
限定されていくのである。マラルメは頼まれれば、
結婚式のスピーチに詩を一篇とかいうのを、喜んで引き受けたんじゃないかしら。
だがしかし、司祭さんにとって、彼個人の内的な思想とか祈りとかいうものが、
日々のお勤めの内に十分に表明されることがない、かもしれないのと同様、
詩人マラルメが、真に目指すものは、もはや韻文定型詩にはなかった。
かたや、劇というかそれこそ儀式というかの『エロディアード』、
かたや韻文定型詩を極限まで突き抜けた『賽の一振り』。
いずれにせよ、おそらくは、広く民衆、大衆に対する詩人の
公的な役割を十全にまっとうするためには、
慣習と化した韻文定型詩ではもはや役を負えん、という意識が
あるのだと、私は、すげえ独断で勝手に納得するのでありました。
パブリックな存在としての「詩人」の存在意義を希求し続け、
ある意味、誠実にそれを実践しつづけた人。
私にとっての個人的後期マラルメ像は、今のとこそういうのです。


今回はいささかちんまりと、韓国料理。
おそるべしは「おこげマッコリ」(こげている)と「豆マッコリ」(マメだ)。
これにビールを注ぎこみ、かたやジンロのちゃんぽんで、
見事に撃沈。宜なるかな。