金曜日りんくうタウン。
土曜日、京都芸術劇場・春秋座にて『マラルメ・プロジェクト』鑑賞。
第一部は松浦寿輝『喫水都市』朗読(松浦寿輝、浅田彰、渡邊守章)と
渡邊守章による『エロディアード―舞台』『半獣神の午後』日本語による朗読。
第二部はマラルメ二作の渡邊守章フランス語朗読に、
高谷史郎の映像と坂本龍一の音楽。
モデレーターに浅田彰。
60年代にマラルメは劇として「エロディアード」と「半獣神」を構想するが、
コメディ・フランセーズでバンヴィルとコクランに駄目だしされ、
紆余曲折を経たあと、いちおう詩作品として形になった。
そもそもが劇として出発した以上、それらのテクストは声に出して読まれる
ことを想定していたはずであり、その意味での演劇性は、最終的なテクストに
おいても存続しているはずである。というのが一点あり、
たとえ難しくとも、マラルメを訳すことはできるし、それを朗読することも
できるはずだ、というのが守章せんせいが断言なさっていたこと。
かくして、では実際に読んで、聴いてみようではないか、というのが
今回の「プロジェクト」の基本的な主旨であったかと理解する。
なるほど、それは確かにそうでもあろうか、
と思いはするけれど、ことマラルメに関しては、理念と実践との間には
常に懸隔が存在するのであって、
今回の試みはその隔たりに架橋するに十分なものであったかどうか。
しかしまあ、ことこの種のものに関して、私の感受性は見事に欠損しているので
なんとも言われない。
パフォーマンスとしては大変クールで、いささか気障なところがあるにせよ、
渡邊守章の朗読は実に堂に入った技芸であり、
無数の星屑が集まってきてはつかの間文字を成し、また消えていくという
高谷史郎の映像も、それはそれとして実に美しかった。
しかし、だからして何がどうなのか、ということになると、
途端に思考停止して何もどうにもなりません。
おとなしく、もう少し考えましょう。