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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

短編「刹那」

岸田國士を仕舞ってたら、かわりに出てきた本があったので、
そうか、この話はしていなかったなと思う。
おそらく、日本で一番読まれたモーパッサン偽作の話。
『モオパッサン選集』、平野威馬雄訳、新潮文庫、1934年初版(1939年25版)
には19編の短編が収録されているが、この中に1編だけ偽作が紛れている。
(というのは私の発見ではないです。)
そう、戦前のあの一回り大きな新潮文庫である。
題して「刹那」。

 若くて美しい一人の維納(引用者注:ウィーン)の貴婦人が、去る年の夏、ちやうど年若く美しい貴族の婦人たちが常に流行社會の人々の集る墺太利の浴場へ行くやうに、外國人がいつも出かけてゆくカルルスパードの温泉へ、夫も伴わずに出かけて行つた。(132頁)

手持ちの本で原文を引いてみる。

 A YOUNG and charming lady, who was a member of the Viennese aristocracy, went last summer, without her husband, as many young and charming ladies do, to a fashionable Austrian watering place, Karlsbad, much frequented by foreigners.
("Caught", in The Complete Short Stories of Guy de Maupassant. Ten Volumes in One, New York, P. F. Collier & Son Company, c1903, p. 497.)

平野威馬雄の『モオパッサン選集』は大正9(1920)年に既に新潮社から出ていたらしい、
というのと、同じ訳者による、
モウパッサン、『結婚第一歩』、平野威馬雄訳、明文社、1946年
にも、この「刹那」は収録されているらしい(いずれも未見)
ということを確認しておいた上で、さてこの偽作の元は何であったかというのを
むはは、私は知っている(もっとも原文は未見)。
Sacher-Masoch, « Gefangen », in Die Messalinen Wiens, Leipzig, Ernst Julius Günther, 1873.
そうです、ザッヘル=マゾッホはここにも健在であったのです。
お話は、その美しい奥様が、美しい青年を愛人として連れ帰ってきて、
あんまり美しくてヒゲも生えてないからと、彼に女装させて、
自分の家に逢引きに来させていたところ、彼自身も女装が気に入って、
そのまま街に出たり、劇場に通ったりすると、男達から言い寄られて
それを楽しむ(このへんの倒錯ぶりがついていけない)。
ところがある日、夫に浮気の現場を見つけられてしまうのである。

「一體これは何といふ態(ざま)だ!」と突然夫は土吃りながら叫んだ。
「ヴァレスカかい?」
「えゝ、さやうでございます。」
「色文を少しばかりあなたの奥様にお目にかけるためにまゐりました。そして又その色文は……」
「いや、いや。」と、だまされた、然し萬更罪がないといふことの出來ぬ夫は絶望の口調で云つた。
「いや、そんなことは全く餘計なおせつかいだ。」
そしてそれと同時に彼は短刀を再び鞘にをさめた。するとポオランド人は冷やかに、
「さうですか、それは大へんいゝ都合ですね。それぢやああなたと私とは休戦しなくてはなりませんね。然し、どのやうに鋭い武器を私が持つてゐるかをお忘れなさいますな。又私はその武器を總ての事件に對しても構へつけておくつもりでゐることをよくおぼえておいでなさい。」と言つた。
(137頁)

で夫婦仲は元通り、愛人はもうペチコートを着る必要がなくなり、
愛人と夫は以前よりも親しく付き合うようになりました、とさ。
まあ、この際、平野威馬雄の訳文の良し悪しはおいておくとして、
(とはいえ「刹那」とはこれまた適当なタイトルをつけたものである。
"Caught" とは、もちろんこれは「現行犯」というやつですな。)
うーむ。これは一体何であろうか。
女装していた青年に言い寄った弱みを握られているので強く出られない夫は、
その後、その青年とも「親しくつきあ」った
("accompany a good deal" はそういう意味でよろしいのか。)
というあたり、ザッヘル=マゾッホと思えば分からんでもない話ながら、
やっぱりよう分からへん。
いずれにせよ、かような性的倒錯の趣向というのはモーパッサンには無いのであって、
この一編が巷のモーパッサン受容にもたらした影響とは
いかほどのものであろうか。
というようなお話でありましたとさ。
さあ、仕事しよ。