えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

毎日がお祭り

「メゾン・テリエ」の家鴨について一例追加。

「あたちたち、小っちゃなお池と別れて来たの。グワッ! グワッ! グワッ! 小っちゃな金串と、お友だちになるために。グワッ! グワッ! グワッ!」ドッと女たちが笑い崩れた。
モーパッサン、『メーゾン・テリエ 他三篇』、木村庄三郎訳、角川文庫、1955年、18-19頁)

ブルータス、お前も(グワ)か。
というわけで「グワ」派優勢な状況であるが、
しかしまあこれだけのために千円払った、というのもなんだか悔しいので、
もう少し読んでいたら、あっと驚いた。
そのお話。
女の一生』の結末の台詞、
「人生は思うほどに良くも悪くもないものですね」
は有名なもので、いろいろ解釈のしようがあるけれど、
モーパッサンが言いたかったことの一つは、
ジャンヌの人生を簡単に「不幸」の一語で片づけてくれるなよ、ということだと思う。
テクストの意味を一元的なものに還元することに対する拒否という点で、
これと同じくらい有名なものに「メゾン・テリエ」の結末のマダムの台詞がある。

« Ça n'est pas tous les jours fête. »
(Maupassant, La Maison Tellier, Gallimard, coll. "Folio", 1995, p. 62.)

いささか口語であるが、意味するところは「毎日が祭りではない」ということで、
それ自体にむつかしいことは何もないのだけれど、
果たしてこの台詞が言わんとすることは何だろうか。
「祭り」は、マダムと女達にとっては初聖体拝受のミサの一日のことであろう。
そこで彼女達は幼き日の純真さを思い出したのであるが、それがために
戻ってきた彼女達は、「気前よく」男達の放蕩に身を任せるのである。その逆説。
ブルジョアの男達にとって「祭り」とは、
再開した娼館でのいつもならぬどんちゃん騒ぎに他ならないが、
それはしかし、彼らの習慣的なささやかな放埓でしかない。その皮肉。
ここでは「祭り」の一語の内に神聖(であるべきもの)と悪徳(とされているもの)とが
混ざり合ってしまっていて、つまるところ、初聖体拝受の一日は何だったのか。
晩の娼館の賑わいの意味するところは何なのか。
考え出すと、何がなんだかよく分からないことになる、ように思われるのである。


解釈の話はともかくとして、しかしまあ「祭り」の一語は重要であるし、
翻訳に際しても、そこんところに大きな差異はよもやあるまい。
と高をくくっていたのであるが、ところがどっこい。
以下、文庫のみ3点。

「毎日、お祭りというわけにはいきませんよ」
(『脂肪の塊・テリエ館』、青柳瑞穂訳、新潮文庫、1951年(1994年61刷)、113頁)

――いつもこんなわけには行きませんわよ。
(『メゾン テリエ 他三篇』、河盛好蔵訳、岩波文庫、1940年(2000年22刷)、55頁)

「今夜は特別。いつも柳の下に鰌はいないわよ」
(「メーゾン・テリエ」、木村庄三郎訳、同前、48頁)

ブルータス、お前は鰌なのか。
って、ブルータスはなんも関係ないが、なんとドジョウが出てくるんだなこれが。
河盛好蔵せんせいのも意訳であるが、これはまあ意味だけ取ればそういうことなので
それはそれとして許容できないことはない(大目に見れば)。
しかしドジョウは、これはいただけない。
この晩、女たちが気前よく男どもを迎えた、その理由が一体何なのか、ということを、
恐らくは彼らは正確には知らないはずであって、
だとすれば一体何が何をもってして「二匹目のドジョウ」となるだろう。
マダムの台詞の「祭り」の語に、彼女自身がどれだけの「含み」を持たせているのか
それは誰にも判断できない。しかしたとえ彼女が日中の出来事を示唆していたとしても
言葉の表面的にはその場の「お祭り騒ぎ」のことを示しているので、
その曖昧さにこそ、この台詞の意味はある。
だから彼女が自ら「これは二匹目のドジョウである」ということを明言するはずはないし、
してもらっては困る。
私はそう考えるのですが、はたしてどうでしょう。


意訳はいかんということは、これは絶対に言えないことであって、
結果的に「意」がよく伝わるのであれば、そのほうがよいということは
十分にありえる。
しかしその「意」を取り違えてもらっては困るので、
だからして私はドジョウは誤訳であると考える。
恐らく訳者は、そのまま訳しても「なんのことかよく分からない」と判断したのであろうが、
その時、作者が意図的によく分からない台詞を記したという可能性を考えなかったのであれば、
それはちょっと傲慢な所作ではなかったでしょうか。
(これだけから3翻訳の優劣を云々するつもりはまったく無いとお断り申し上げますが。)
かくして、意訳の落とし所は、たいへんに難しいのである。


という教訓をもってして、さて私は千円分のもとをとったことになるでしょうか?