読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

あばずれのローザ

さすがに我ながら物好きとは思いつつ、もう一冊届いたので確認。

あたちたちは、ちっちゃなお池とおわかれちてきたんですよ! グワ! グワ! グワ! ちっちゃな金串とおちかづきになるためにね――グワ! グワ! グワ!
モーパッサン、『脂肪の塊・テリエ館』、新庄嘉章訳、講談社文庫、1978年、88頁)

こうして比べてると、相違よりもむしろ似かより具合のほうが目につくのも困るが、
とにかくグワ派一名追加。

  誕生日の晩におばあさん、
  おみきをちょっぴり頂いて、
  頭ふりふり言うことにゃ、
  これでも昔はならしたものさ!


  腕はまるまる太り肉、
  脚の形もまた見事、
  言っても甲斐ないことながら、
  返らぬ昔がなつかしい!
(109頁)

なんと、「むっちり」に代わるは「太りじし」。
「返らぬ夢」は「昔」となっている。
で、結語。

「いつもいつもこんなわけにはいきませんよ」
(117頁)

総じて、新庄嘉章が既訳を意識していることはよく分かる、というところかな。
これで戦後の主な訳は出揃ったかと思うのだけれど、そうすると、
杉捷夫や田辺貞之助は「メゾン・テリエ」を訳していないらしく、いささか意外な感がある。
とマニア度の濃い感慨を漏らしつつ、さてどうしようかしら。
翻訳のむずかしいところとしては、他にたとえば人物のあだ名もある、
というのは「脂肪の塊」でいやというほど体験しているのだけれど、
「メゾン・テリエ」の娼婦の中には、Rosa la Rosse と呼ばれる女性がいる。
rosse は辞書によれば、はじめ「駄馬」の意味が転じて、
役立たず、意地悪、さらに進んで辛辣な者、等々意味に広がりのある言葉である。
で、これがどう訳されているかと見ると、
「あばずれ」のローザ(青柳・河盛・新庄)
あばずれローザ(長塚
「ぐうたら」ローザ(木村)
5人中4人が「あばずれ」を採用している。
あばずれの語が間違っているとは言わないけれども、
それに決まっていなければならない理由はさしてないはずで、
もう少し変化のあってもよさそうなものだと思ってもみたり。
「ぐうたら」は、その後の人物描写から割り出したものだろうけど、
しかしこれは rosse の訳語としてはちと頂けないのではなかろうか。
実はローザは別に rosse な人物ではない、というところにこのあだ名の面白みがあるようにも思う。
恐らくこれは、ローザとロッスの、一種の掛け言葉であるのと同時に、
Rosa la Rose 「バラのローザ」の格落ちを表す洒落でもあるのでしょう。
そこで、たとえば、
イバラのローザ(その心は、すなわちトゲトゲしい)
なんてのはどうですか。駄目ですか。駄目かもしれぬ。
うーむ。では、こういうのはどうですか。
じゃじゃ馬のローザ
うーむ。やっぱし違うかしら。
娼婦のうちの二人はもっぱら階下のカフェで水夫や労働者達に酒を注いで回るので
deux Pompes と呼ばれるが、これはそろって「二台のポンプ」。
(木村訳では「いくらでも飲むという洒落」(10頁)と注釈があるけど、
ポンプは「飲ませる」ほうでありましょうな。)
その内の一人 Flora は、少し足をひきずっているので Balançoire と呼ばれている。
(別の短編には、鐘のように体が揺れるというのでクロシェットと呼ばれる女性がいるのと同じ)
もちろん差別的な表現ですが、19世紀フランスの話なので、どうぞご勘弁くださいまし。
さて、これがむずかしい。
「ぶらんこ」と言われるフロラ(青柳、77頁)
「ギーコバッタン」という綽名のあるフロラ(河盛、12頁)
「ぶらんこ」と渾名をつけられているフロラ(木村、10頁)
ギーコバッタンといわれているフロラ(長塚、25頁)
「ギッコンバッタン」と呼ばれているフロラ(新庄、80頁)
シーソー派とブランコ派に分かれているではありませんか。
「野遊び」の中では escarpolette という古語がブランコに使われていることもあり、
ここはシーソーかなあという気がするけれど、確証はない。
けど「ギーコバッタン」はねえ。


―おい、ギーコバッタン
―あいよ、なんか用かい。


てなもんですか。まあ、別にいいかもしれぬ。
とまあ、細かい話はいくらでも出来るのだけれども、ほどほどにして。
いつか「メゾン・テリエ」ぜんぶ自分で訳すのが、今のとこの目標の一つであります。